風斬鷲と魚
翌朝。
窓から入る空気が冷たい。夜明け前の、青みがかった薄闇が部屋を満たしている。隣の寝台から、シャムロックの寝息が聞こえる。深く、規則的で、乱れがない。
グレンは音を立てずに身を起こした。立て掛けた杖に手を伸ばそうとして、指先が枕元の何かに触れた。
風切羽だった。
昨日、岩場で番をしていたときに、鷲が落としたもの。灰褐色の大きな羽根。腕ほどの長さがある。軸が硬く、先端が鋭い。風を切るための羽。
なぜ拾ったのか、自分でもよくわからない。鷲が嘴で咥え、こちらを見て、落とした。それだけのことだった。意味があるのか、ないのか。
多分ない。
羽繕いの最中に抜けた羽を落としただけだろう。
何となく捨てる気にならず、持ち帰ってしまった。
◆ ◆ ◆
放牧地に着いたのは、陽が丘の稜線を超えた直後だった。
ヘルマンが自ら、山羊を柵の中に放した。十数頭の白い塊が朝の光を受け、鈴が一斉に鳴り始める。昨日と同じ光景だ。だが昨日とは、空気が違う。
ヘルマンの目が、空を見ている。柵の杭を握る手に、力が入っていた。
グレンとシャムロックは、放牧地の端に立っていた。杖を地面に突き、空を見上げる。オルドは柵の外側、丘の斜面に腰を下ろしている。村人が何人か、遠巻きに見ていた。子供の姿はない。家の中に入れられているのだろう。
グレンは懐から風切羽を取り出した。
目の前に、爪痕の刻まれた柵の支柱がある。最初に風斬鷲の痕跡を見つけた場所。三本の溝が木の繊維をえぐり、白い木肌が覗いていた。
その溝に、羽の軸を差し込んだ。
羽が、風に揺れた。灰褐色の羽毛が朝日を透かし、縁が淡く光る。支柱の上で、旗のように揺れていた。
「何してんの」
シャムロックが横目で見た。
「なんとなく」
それ以上の説明はなかった。持っていても、しょうがない。柵にでも飾っておけば、村の物になる。それだけのことだ。
◆ ◆ ◆
待った。
山羊が草を食む音。鈴の音。風が放牧地を渡る音。虫の声。それだけの時間が過ぎていく。
一時間。
岩場の上空に、鳥影が見えた。小さい。旋回している。風斬鷲だ。ここからは豆粒のようにしか見えない。
放牧地には、近づいてこない。
グレンは鳥影を目で追った。旋回の半径は一定。高度も変わらない。岩場の周辺だけを飛んでいる。ここへ来る気配は、なかった。
ヘルマンも空を見ていた。拳を握ったまま、動かない。
二時間。
鳥影は変わらず、岩場の上空に現れたり消えたりだ。こちらには来ない。山羊は無事に草を食んでいる。何も、起きていない。
何も起きていないことが、少しずつ証拠になっていく。
◆ ◆ ◆
昼に近づいた頃だった。
鳥影の旋回が、変わった。
半径が広がる。高度が下がる。——こちらに向かっている。
ヘルマンの顔が強張った。
「やっぱり——」
声がかすれている。やっぱり来る。やっぱり駆除するしかなかったんだ。——その言葉を飲み込む前に、ヘルマンの体が一歩後ろに下がっていた。
村人の間に、ざわめきが走る。「子供を」「家に」と誰かが叫んでいる。
グレンは杖を構えた。シャムロックが剣の柄に手をかける。
鷲がゆるやかに降下を始めた。
翼を大きく広げ、風を受けながら。降下というよりは、滑空だ。
「んん……?」
獲物を狙う動きではない。昨日、岩石蜥蜴に向かっていったときは翼をたたみ、風を縫うように急降下していた。
山羊に向かっていない。放牧地の中心ではなく、端——グレンたちが立つあたりに向かっている。
構えた杖の先端に魔力が集まりかけた、その瞬間。
鷲は、グレンたちの頭上を通過した。
風圧が叩きつけた。髪が乱れ、ローブの裾がはためく。翼が空気を打つ音が、頭蓋を震わせる。影が地面を横切り、一瞬で通り過ぎた。
何かが、落ちてきた。
濡れた銀色の塊が、グレンの足元に落下する。石畳に当たって跳ね、草の上に転がり、止まった。
魚だった。
両手に余るほどの大きさ。鱗が朝日を受けて虹色に光っている。口がまだ開閉していた。尾が草の上で、一度、二度、跳ねる。
グレンは足元の魚を見下ろした。
顔を上げる。
鷲は既に上昇していた。翼を大きく広げ、岩場の方角へ戻っていく。右脚をまだ庇っている。だが飛行は安定していた。一直線に遠ざかり、小さくなり、やがて岩場の上空で、再び旋回を始めた。
放牧地には、戻ってこない。
全員が、足元の魚と遠ざかる鷲を交互に見ていた。
風が吹いた。柵の支柱に差した風切羽が、揺れている。
「……礼か? 鳥が?」
シャムロックが呟いた。呆れたような、笑いたいような声だった。
誰も答えなかった。答える材料を、誰も持っていなかった。
ヘルマンが魚を見下ろしている。濡れた鱗が光っている。今まで奪われた家畜の価値には、遠く及ばない。だが鷲が、攻撃ではなく、これを落としていった。
ヘルマンが空を見た。鷲の影は小さく、岩場の上空を旋回している。
ヘルマンの拳が、開いた。
指が一本ずつ、ゆっくりと伸びていく。杭を握っていた手が、だらりと下がった。
「……参ったな」
小さな声だった。笑いではない。嘆きでもない。もっと手前にある、名前のつかない音だった。




