これから積んでいけばいいんじゃないの
緊張が解けた後、広場の空気は変わった。
不信から、好奇心へ。
蜥蜴の死体がある。見たことのない生物。子供が二人、荷車の横まで駆けてきて、恐る恐る尾に触った。硬い。冷たい。きゃあと声を上げて走って逃げ、また戻ってくる。
「ところで——この肉、食えるのかい」
ヘルマンの妻、マルタだった。蜥蜴の胴体を値踏みするように見ている。
オルドが答えた。
「食える。鶏に似ている」
ヘルマンの妻が、腕まくりをした。
「じゃあ解体しようか。——男衆、手伝って!」
荷車から降ろされた蜥蜴が、仰向けに転がされた。
腹の傷口を上にして広場の石畳に横たわる巨体は、薄暮の中で異様な存在感を放っている。男衆が集まり、オルドの指示で腹の鱗を剥がしにかかった。硬い背面とは違い、腹側の鱗は山刀で切れる。その下には白い筋肉の層があった。
「氷を貰えんかね、魔術師さん」
ヘルマンの妻が声をかけてきた。これだけの量だ。今夜で食べきれるものではない。残りを塩漬けにするまで、傷ませずにおきたいのだろう。普通の村なら、夏に肉を冷やす手立てはない。だが今は、グレンがいる。
グレンは掌の上に氷の塊を作り、木の桶に落とした。
「魔術師さんだと、夏でも氷が作れるんだねぇ」
「火も使い放題なんだろう」
「めちゃくちゃ便利じゃないか」
男衆の声に、いちいち返す余裕はなかった。悪い気はしない。氷を作る程度の魔術は、呼吸をするのと変わらない。だが、村人の役に立っている。その実感が、いつものような後ろめたさを伴わずに、すんなりと胸に落ちた。
切り分けた肉を、女衆が広場の共同竈へ運んでいく。煙が上がり、脂の焼ける匂いが広場に広がった。鷲の処遇をめぐる緊張は、蜥蜴の腹を割いたあたりから急速に薄れている。目の前に大量の肉がある。人間は、理屈よりも先に手を動かし始める。
解体を終えたオルドが、手を拭きながら二人のところに来た。
「ガラはどうする」
「ギルドの下取りに出すのがルールだが、必要なら買い取ってもらっても構わない」
グレンが答えると、オルドがヘルマンや周囲を見回した。村人の顔は、みな困ったものだった。骨と鱗の残骸。背面の鱗は鍋より硬い。牙も爪も、村の道具では加工できない。
「こんな硬いもの、わしらじゃどうにもできんよ」
オルドが首を振る。
「洗って干しておくから、持って帰ってくれ」
「助かる」
「まあ、ガワなら持ち帰れるか」
シャムロックが蜥蜴の頭骨を拾い上げ、重さを確かめた。
グレンは、その背中を見た。いつもこうだ。重い物はシャムロックが持つ。軽い物も、シャムロックが持つ。グレンが持つのは、自分の杖と背嚢だけ。
「お、俺も運ぶから」
「は? いいって」
「運ぶ!」
「何なの、面倒くさい」
「面倒くさくない!」
シャムロックが面倒くさそうにため息をつき、後頭部を掻いた。
「わかったわかった。じゃあ代わりに俺の荷物を持ってくれ」
グレンは頷いた。役割を一つ分けてもらえた。今はそれで満足だった。
◆ ◆ ◆
夜が落ちた。
広場の共同竈から、煙と蒸気が上がっている。鉄板の上で蜥蜴肉が焼かれ、大鍋では根菜と一緒に煮込まれていた。脂の匂いが、広場に充満している。
グレンとシャムロックは、広場の端にいた。石の台に腰を下ろし、木の椀を膝に乗せている。蜥蜴肉のシチューと、黒パン。マルタがよそってくれたものだ。
シャムロックが肉を口に運んだ。数度噛んで、飲み込む。
「あんなナリして結構美味いな、あいつ」
もう一切れ。
「もっと大味だと思ってた」
グレンも椀の中身を見た。白い肉が根菜と一緒に煮込まれている。湯気が立っていた。匙で掬い、口に入れる。
確かに鶏に似ている。だが鶏より繊維が細かく、噛むと柔らかくほどける。臭みは、思ったほどない。塩と、何かの——ハーブだろう、あの緑色の葉——の匂いが、肉の脂と混じり合っていた。
悪くない。
パンを浸す。汁が染みて、柔らかくなる。口に入れると、肉の旨味とパンの酸味が合わさった。椀の底が見えてくる。
シチューの匂いが、夜風に乗って広場を流れていく。竈の火が村人の顔を橙色に照らし、影を揺らしている。子供たちが竈の周りを走り回り、大人に叱られていた。遠くで、犬が吠える。
椀を空にしたシャムロックが、腰を上げた。
「焼いてるやつも貰ってくる」
竈の方へ歩いていき、しばらくして戻ってくる。両手に木の皿。串に刺さった焼き肉が、湯気を立てていた。一つをグレンに差し出す。
受け取った皿から、シチューとは違う匂いが立った。煮込まれた丸い香りではない。直火で炙られた、香ばしい匂い。表面に焦げ目がつき、脂が滴って、まだじゅうじゅうと音を立てている。
齧った。
外側は香ばしく、焼き締まっている。だが中は、煮込んだものと同じように柔らかい。肉の汁が、噛むたびに口の中に溢れた。塩を振っただけの、単純な味付け。それが、かえって肉そのものの旨味を引き出している。シチューよりも、肉の味が濃い。
……こっちも、いい。
夢中で齧っていた。串の肉が、みるみる減っていく。
「美味いな」
シャムロックが、自分の串にかぶりつきながら言った。広場の様子をぼんやりと眺めている。いつもの、気の抜けた目。
「ありがとう」
ぽつりと、声が落ちた。シャムロックにだけ届くような音量だった。
「何が?」
「お前がフォローしてくれなかったら、俺……」
正確に言おうとして、正確な言葉が見つからない。
「ここでも問題起こして、衝突して、依頼をダメにしてた」
シャムロックは手を止めなかった。口に運び、噛み、飲み込む。
それから、息を吐いた。
呆れたため息ではなかった。これから口にすることを、胸の中で一度並べ直してから出す、準備の呼吸だった。
「お前はさ」
食べ終えた串を皿に置く。
「単に、経験が足りないんだと思うよ、俺は」
手痛い一言だった。
否定ではない。慰めでもない。事実の提示。お前の性格が悪いのでも、能力が足りないのでもない。経験がないだけだ。——そう言っている。
事実だった。反論する材料が、どこにもない。
三年間、一人で依頼をこなしてきた。依頼主と最低限のやり取りをし、報酬を受け取る。それだけの三年間。村長と交渉したことはない。村人に説明したこともない。自分の判断を他者に納得させる必要がなかった。一人だったから。
「だからまあ」
シャムロックが自身の膝で頬杖をつく。
「これから積んでいけばいいんじゃないの、経験」
いつもの眠そうな目だった。広場の竈を見ている。火を見ている。
グレンは抱えていた椀を見下ろした。残りの具材が、底に少し残っている。パンの欠片が、汁を吸って沈んでいた。
これから。
その一言が頭のなかで反響する。三年間、明日のことしか考えてこなかった。今日を生き延び、翌日を迎える。その先に「これから」を積み上げていくという発想がなかった。一人なら、できなかった。
椀の残りを掬って、口に入れた。冷めかけたシチューは、さっきより少しだけ味がはっきりわかった気がした。




