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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
一人から二人

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家畜を襲ったのは

 三人が村の広場に着いたのは、日が丘の稜線に触れかけた頃だった。


 車輪が石畳に軋む音を聞きつけて、村人が集まり始める。一人、二人。やがて十人を超えた。夕餉の準備を中断して出てきた女たちが手を拭きながら覗き込み、畑から戻った男たちが鍬を肩に担いだまま足を止める。


 荷車の上のものを見て、みな息を吞んだ。


 灰色の巨体が、荷台からはみ出している。棘のような鱗に覆われた背中。太い四肢。長い尾が荷台の縁から垂れ下がり、地面を擦っていた。腹に突き刺さった氷柱の残骸が、溶けかけて赤黒い水を滴らせている。


「……何だ、これは」


 ヘルマンが広場に出てきた。蜥蜴の死体を見上げ、それからグレンとシャムロックの顔を見る。


「鷲は、どうした」


 最初の問いが、それだった。


「何もしてない」


 グレンが答えた。広場の空気が、一段冷える。

 グレンは説明した。岩場に蜥蜴が棲みついていたこと。鷲の餌場を壊し、巣を脅かしていたこと。鷲が家畜を襲ったのは、この蜥蜴に追い出されたからだということ。蜥蜴を排除したので、鷲は巣に戻った。家畜への被害は、止まる。

 言い終えたとき、広場は静かだった。

 静かすぎた。


「……止まると言われても」


 ヘルマンが口を開いた。声は抑えているが、語尾が硬い。


「鷲はまだ、生きているんだろう」

「生きている。でも——」

「うちの山羊を攫ったのは、鷲だ。蜥蜴じゃない」


 ヘルマンの後ろで、村人の何人かが頷いた。そうだ、と呟く声が聞こえる。


「銀貨十枚を出して依頼を出したのは、鷲を何とかしてほしかったからだ。蜥蜴を何とかしてくれとは——」

「依頼票には獣害対策と書いてあった」


 グレンが遮った。声が尖ったのが、自分でわかった。引っ込めることは、できなかった。


「鷲が家畜を襲う原因を排除した。それが獣害対策じゃないのか」

「原因と言われてもな」


 ヘルマンの視線が、蜥蜴の死体に行き、また戻る。


「こいつがいなくなったから鷲が大人しくなるなんて、本当にそうなるのか。保証できるのか」

「保証は——」

「できないだろう」


 ヘルマンの声が重くなった。村長の声だった。個人の感情ではなく、村全体の不安を背負った声。


「明日にも、鷲が降りてくるかもしれん。そのとき、あんたたちはもういないだろう」


 グレンの奥歯が、音を立てずに噛み合わさった。

 間違ったことは、言っていない。ヘルマンの言い分は正しい。保証はできない。鷲が来ないと断言できる根拠はない。自分がいなくなった後のことは、自分には制御できない。

 正しい。正しいが——。


「だったら、この蜥蜴を放置すれば良かったのか」


 声が出ていた。止められなかった。


「鷲を殺してそれで終わりか。蜥蜴はどうする。放っておいたら、遅かれ早かれこっちに来る。柵なんか、一撃で壊される。家畜小屋に入られたらどうなる。それどころか家にだって」

「グレン」


 シャムロックの声だった。

 低く、平坦で、感情が乗っていない。名前を呼んだだけ。それだけだが、グレンの口が閉じた。

 喉の奥に、言葉の残骸が引っかかっている。まだ言いたいことがある。言わなければならないことがある。だが、止まった。


 シャムロックが一歩前に出た。

 ヘルマンの方を見る。村人たちの方を見る。視線を一巡させてから、口を開いた。


「心配は、もっともだ」


 声が軽い。さっきまで蜥蜴と死闘を演じていた男の声とは思えないほど、力が抜けている。


「でもな。これだけは見てくれ」


 荷車に歩み寄り、蜥蜴の鱗に剣を叩きつけた。甲高い音が広場に響く。石を叩いたような音。村人の何人かが、肩を竦めた。


「俺の剣じゃ、傷一つつかなかった。刃が通らない。矢も無理だろう。鎌も斧も、まず無理だ」


 言葉を切った。村人が、自分たちの農具を見ている。通るわけがない。


「こいつが放牧地まで来ていたら、鷲どころの話じゃなかった。小屋ごと食い散らかされるだろう。鷲は空から来るぶん目で見える。こいつは地面を這ってくる。——どっちが危ない?」


 問いかけの形だが、答えは見えている。蜥蜴の死体が、言葉以上の説得力を持っていた。

 村人の間で、視線が交わされる。囁きが走った。


「……それで」


 ヘルマンが言った。まだ納得していない。だが怒りの色は、薄れていた。


「鷲が来ないと、どうして言える」

「言えない」


 シャムロックが即答した。


「だから、明日も残るよ」


 ヘルマンの目が動いた。


「明日の朝、いつも通りに山羊を放牧地に出してくれ。俺たちが立ち会う。鷲が来なければ、もう来ない。来たら——」


 シャムロックが、グレンの方をちらりと見た。


「こいつが落とす」


 短い沈黙。

 ヘルマンが蜥蜴の死体を見た。この巨大な蜥蜴を一撃で串刺しにした魔術師が、明日も放牧地に立つ。鷲が来たら、落とす。それは——保証ではない。だが、空約束でもない。


「……追加の費用は」

「要らない」


 シャムロックが答えた。グレンの方を見る。グレンは黙って頷いた。

 ヘルマンは長く黙った。村人の視線が集まっている。村長として、決断しなければならない。


「……わかった。明日の朝、見届けさせてもらう」


 折れたのではない。自分の目で確認する、と決めた顔だった。

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