風切羽
岩場に、静寂が戻った。
氷柱が陽光を受けて光っている。蜥蜴の体液が氷の表面を赤黒く染め、滴が地面に落ちるたび、小さな音を立てていた。
グレンは杖を地面から引き抜いた。足元から冷気が這い上がり、靴の中まで冷たい。
シャムロックが膝を払って立ち上がった。氷柱を見上げ、蜥蜴の死体を見上げる。
「魔術ってのは、すごいもんだな」
「腹が柔らかいなら、下から行けばいい」
「ひっくり返せれば腹掻っ捌いてやろうとは思ってたが」
シャムロックが、氷柱と蜥蜴をもう一度見上げた。
「えげつない」
「お前に言われたくない」
オルドが立ち上がった。膝を押さえ、腰を伸ばし、痛みを堪えるように数歩歩いてから、蜥蜴の死体の前に立つ。
何も言わなかった。串刺しになった蜥蜴を見上げ、それからグレンを見て、シャムロックを見て、もう一度蜥蜴を見た。
上空で、鳴き声がした。
傷ついた方の鷲だった。右脚を庇って体を傾けながら、それでも飛んでいる。巣のある岩壁の方角から、こちらへ。様子を見に来たのだろうか。蜥蜴が消えた先を、追ってきたのか。
鷲は上空を三度巡り、やがて少し離れた岩の上に降り立った。左脚だけで岩を掴み、翼を畳む。右脚は持ち上げたまま、身じろぎしない。こちらを見下ろしている。
「……何しに来たんだ」
シャムロックが呟いた。
「さあ」
グレンが応える。
オルドの肩が落ちた。緊張が抜けた肩だった。
「怪我はしているが、餌さえあれば治るだろう」
誰に言うでもなく、オルドが呟いた。目は、岩の上の鷲を向いている。
「兎が戻るには、少しかかるだろう。だが巣穴を壊すやつがいなくなれば——」
言葉を切った。不要な言葉だった。三人とも、わかっていた。
風が岩場を抜けていく。蜥蜴の血と、溶けかけた氷の匂いが混じり、鼻の奥を冷たく刺した。
鷲がもう一度鳴いた。短く、鋭く。だが先ほどの戦いの最中に聞いた悲鳴とは、声の質が違っていた。
◆ ◆ ◆
「さて。こいつを村まで運ぶわけだが」
シャムロックが蜥蜴を見上げて言った。
「頼んだぞ、シャムロック」
グレンは力強く丸投げした。
「ふざけんな。デカすぎるわ」
言葉は突っぱねているが、声に棘はない。これがこの男なりの、じゃれ方への応じ方だった。
「荷車を使おう」
オルドが言った。
「わしの家にある。どっちか付いてきてくれ」
順に二人を見る。
「俺とじいさんで取ってくる。お前はそいつ見張っとけ」
グレンが口を開くより先に、シャムロックが言った。なんでも面倒がる男だが、力仕事は買って出る。体力と腕力は自分の領分だと、こういうときは迷わなかった。
「わかった」
シャムロックとオルドが丘の向こうへ消えると、岩場には、グレン一人が残された。
氷柱に刺さった蜥蜴の影が、長く伸びている。もう夕方に近い。
グレンは手近な岩に腰を下ろし、杖を膝に乗せた。
鷲は、まだ岩の上にいた。
少し離れた岩の天辺。左脚一本で立っている。右脚は折り畳んだまま。こちらを見ていた。逃げもしない。威嚇もしない。ただ、見ている。
巣には戻らないのか。グレンは、ぼんやりとそう思う。雛のところには、もう一羽がいる。だからこいつは、わざわざここまで、何をしに来たのか。
グレンも、見ていた。
互いに動かない時間が流れる。山の風が、岩場を渡っていく。
やがて鷲が、羽繕いを始めた。傷つかなかった方の翼から、嘴で胸の羽を整え、付け根を梳いていく。その動きの中で、一枚の風切羽が抜けた。大きい。腕の長さほどある。灰褐色の羽。鷲はそれを嘴で咥え、しばらく保持していた。
それから、首を傾げるようにして、落とした。
羽が、岩を伝って落ちてくる。風に乗って揺れながら、ひらひらと。やがてグレンの足元に近い地面へ、音もなく着地した。
グレンは羽を見下ろした。見上げると、鷲はまだこちらを見ている。
羽を拾い上げた。軸が硬い。先端が鋭い。風を切るための羽だ。
鷲が、視線を外した。翼を広げ、ひと声鳴いて、岩を蹴る。傷ついた体で、それでも危なげなく、巣のある方角へ飛び去っていった。
「戻ったぞー」
丘の向こうから、シャムロックの声がした。荷車をガラガラと引いて戻ってくる。オルドは束ねた縄を担いでいた。
「おかえり」
「ちゃっちゃと積んで帰るぞ。日が暮れる」
怠そうな声だった。
「それは……風切羽か?」
オルドの、利く方の目がわずかに見開かれた。
「うん。なんか、『持っていけ』みたいに落としてきた」
グレンは手の中の羽を、表に裏にと回してみせた。
「……蜥蜴退治ありがとうってか?」
シャムロックが首を傾げる。モンスターが人間相手にそんな感情を持つのか、と言いたげな間があった。それでも否定はしなかった。




