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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
一人から二人

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いざ岩場へ

「その岩場を、見てみたい」


 声に出すと、オルドの表情が変わった。閉じかけていた口元が緩み、しわがれた顔の皺の形が、ほんのわずか動く。言葉にはしない。だが安堵が、片方しかない目の光に滲んでいた。


 ヘルマンは、逆だった。眉が寄り、口元が引き結ばれる。


「しかし——」

「別に、追加報酬なんて要求しない」


 グレンはヘルマンに向き直った。村長の顔を見る。銀貨十枚。村の共同基金から捻り出した金だ。それ以上は出せないだろう。


「依頼票には、獣害対策と書いてあった。鷲だけが獣害とは限らないだろ」


 ヘルマンの眉が、わずかに動いた。反論を探しているが、見つからない顔だった。依頼票の文面は確かに「獣害対策」であり、風斬鷲の名は、その補足として記されていた。


 グレンは最後に、シャムロックへ目を向けた。


「いいだろ?」


 シャムロックが薄く目を開けた。やはり、起きていたのだ。


「いいよ」


 異を唱える気配もなければ、特別な関心を示す気配もない。お前が行くなら行く。それだけの返事だった。


 ヘルマンが一歩前に出た。


「岩場に行っている間に、鷲が現れたらどうする。放牧地の家畜は——」

「巣に人間が近づけば、そっちに意識が行く」


 シャムロックが柵から背を離しながら答えた。腰の剣の位置を、無造作に直す。


「餌を獲ってる場合じゃなくなる。大丈夫だ」


 営巣地に脅威が近づけば、猛禽は巣の防衛を優先する。放牧地から離れた人間が岩場に向かえば、鷲の注意も、そちらへ引かれる。


 ヘルマンは黙った。納得したというより、これ以上、反論する材料が尽きた沈黙だった。


「……気をつけてくれ」


 絞り出すような声だった。村長にできるのは、もう、それだけだった。


「こっちだ」


 オルドが先に立って歩き始めた。柵を越え、丘の斜面を下り、次の丘へ向かって草地を横切る。足取りは、老人のものとは思えないほど確かだった。地面の起伏を知り尽くしている足だ。どこに石があり、どこが柔らかいか、目で見る前に身体が覚えている。


 グレンとシャムロックが後に続く。シャムロックは剣の帯び方を直していた。鞘の位置を腰の少し後ろにずらす。歩行の邪魔にならず、かつ抜刀が遅れない位置。無意識の動作に見えるが、身体が戦場への移動を認識していた。


 丘を一つ越えた。


 景色が変わる。放牧地の手入れされた草地から、野生の灌木と背の高い草が混じる斜面になった。足元に獣道が見える。踏み固められた幅の狭い筋が、草の間を縫っていた。


「この獣道は、まだ生きてる」


 オルドが足を止めずに言った。


「兎が使う道だ。だが最近は糞が減った。数が減ってる証拠だ」


 グレンは足元を見た。獣道の脇に黒い粒が散っているが、古い。乾ききって灰色になりかけている。新しいものがない。


「以前は、もっとあったのか」

「歩くのに邪魔なくらいあった。兎だけじゃない。野鼠の巣穴も、この斜面にはいくつもあったんだが——」


 オルドが草の根元を指した。小さな穴が開いている。だが穴の縁が崩れ、土が被さりかけていた。使われていない巣穴だ。主のいなくなった穴。


 もう一つの丘が見えてきた。その先に、灰色の岩肌が午前の光を受けて白く光っている。遠目にも、岩の裂け目や段差が見て取れた。


 そのとき、ふと風向きが変わった。


 草と土の匂いの中に、別のものが混じる。饐えた獣の臭い。腐りかけた肉と、糞の混じった臭気。ねぐらの臭いだ。狩った獲物を持ち込み、食い散らかし、骨と残骸を溜めた場所。


 オルドが足を止めた。


「ここからは、静かにしろ」


 さっきまでの「訴える老人」ではない。獲物の縄張りに入る猟師の声だった。


 岩場は、もう目の前だった。


 オルドが岩壁の表面を指した。灰色の岩肌に、何かが擦れた痕が走っている。硬いものが、岩を削りながら通った跡。


「これだ」


 痕は一本ではなかった。裂け目に向かって数本、平行に走っている。同じ経路を、繰り返し通った証だった。


 裂け目の手前に、白いものが散らばっている。骨だ。小動物の——兎か、鼠か。肉は残っていない。古いものと新しいものが入り混じり、いくつかにはまだ、乾いた腱がこびりついていた。ここで繰り返し、食っている。


 オルドが屈み込み、地面に顔を寄せた。砂の上を、指で示す。


「跡が新しい。乾ききってない」


 砂に、太い筋が刻まれていた。何かを引きずったような溝。その両脇に、爪をかけた窪み。グレンにも、それが移動の痕だとわかった。腹と尾を引きずり、四肢で地を掻いて進んだ跡。


「近いな」


 オルドが立ち上がり、周囲を見回した。耳を澄ますような、首の傾げ方だった。


 グレンも、つられて意識を耳に向ける。


 ——静かだ。


 静か過ぎた。ここまでの道中、絶えず聞こえていた虫の音が途絶えている。風が岩を撫でる音だけが残り、生き物の気配が、すっぽりと抜け落ちていた。

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