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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
一人から二人

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猟師オルド

「あとは待ちだな」


 シャムロックが柵にもたれた。腕を組み、目を閉じる。立ったまま眠る姿勢だった。


「まさか寝る気か」

「来るまで暇だろ」

「そうだけども」


 もはやヘルマンの目には諦観の色がある。


 風が放牧地を渡っていく。山羊の鈴が鳴る。柵の向こうで羊が一頭、こちらを見ていた。

 グレンは杖を抱え、柵の支柱に背を預けた。爪痕の刻まれた支柱だ。指先に、木の繊維の裂け目が触れる。この傷をつけたものが、今日また来る。


 空を見上げる。まだ何も起きていない、平和な空だった。

 鈴の音と、虫の声。風の匂い。

 待つ時間が始まった。

 太陽が丘の稜線を離れ、影が小さくなり始めた頃——シャムロックが薄く目を開けた。


「誰か来る」


 グレンが振り返る。村へ続く小径の向こうから、人影が一つ近づいてくる。歩調は速い。走ってはいないが、急いでいる足だった。丘の起伏に合わせて姿が見え隠れし、やがて柵沿いに出てきた。

 老人だ。白髪交じりの短い髪。日焼けした顔に、深い皺が刻まれている。左目のあたりに古い傷痕がある。引き攣れた肉が瞼を半ば塞ぎ、その目は閉じたまま動かない。革の上着は擦り切れ、肘や裾に幾度も繕った跡がある。腰には、使い込まれて柄の革が黒ずんだ山刀。背には、空の獲物袋が垂れていた。

 ヘルマンが目を細めた。


「オルドか。どうした」


 声には親しみがあった。だが同時に、わずかな敬遠の色が混じる。

 オルドと呼ばれた老人は、柵の前で足を止めた。肩が大きく上下している。息を整えるのに、数秒かかった。日に灼けた喉が、唾を飲むように動く。


「冒険者が来たと、聞いた」


 低い声だった。しわがれているが、芯は強い。グレンとシャムロックに目を向ける。片方が利かないぶん、もう片方の目が、刃のように鋭かった。値踏みではない。確かめる目だった。


「鷲を殺す前に、聞いてくれ」


 頼みというより、突きつけるような響きがあった。


「オルド」


 ヘルマンの呼びかけに、諫める響きが混じる。


「……聞かせてくれ」


 グレンが短く返す。オルドの目が、グレンに定まった。


「風斬の岩場に、蜥蜴が住み着いている」


 言葉は短く、削ぎ落とされている。余計なことを語らない男の話し方だった。


「人の倍はある。全身に、棘のような鱗が生えてる。あれは岩より硬い」


 拳が、一度だけ握られた。山刀を吊った腰の脇で。自分の得物では届かない相手だと、この老人は知っている。


「あいつが来てから、獲物がかからなくなった。兎も、狐も、鹿も穴熊もだ」


 声に、抑えた苛立ちが滲んだ。


「あの蜥蜴が、全部食っている。だから風斬は——」

「いい加減にしてくれ、オルド」


 ヘルマンが遮った。穏やかだが、押し殺した響きがある。


「私たちは、蜥蜴に困っているんじゃない。鷲に害されているんだ」

「だから」


 オルドが、わずかに身を乗り出した。


「その鷲を害しているのが、蜥蜴なんだ」


 言葉が、宙で噛み合わない。二人とも同じ岩場の話をしているのに、見ているものがずれている。

 ヘルマンが息を吐いた。苛立ちというより、疲れに近い吐息だった。


「だとしてもだ」


 声を落とす。


「うちの家畜を襲っているのは、鷲なんだよ。蜥蜴がどうという話は、悪いが後だ。まず鷲を片付けてもらって、それからでも遅くない」


 オルドが口を閉じた。顎の筋肉が、まだ動いている。言いたいことが残っているのだ。だが、村長に言い返す言葉を、この老人は持っていなかった。持っていても、通じないと知っている顔だった。

 沈黙が落ちる。山羊の鈴が、場違いに明るく鳴った。


 オルドの目が、もう一度グレンに向いた。何かを期待する目ではない。ただ、言うべきことは言った、という目だった。あとは冒険者が決めればいい。自分には、もう手立てがない。そういう目だった。

 グレンは、老人の顔を見ていた。利かない方の目の傷痕と、もう片方の、鋭く乾いた光を。

 風が、放牧地を渡っていく。草が一斉に傾いだ。


 グレンは、ちらりとシャムロックを見た。柵にもたれたまま、腕を組んで目を閉じている。眠っているのか起きているのか、判別がつかない。


 鷲はまだ現れない。空はただ青い。


 オルドの話が、頭の中で積み上がっていく。

 岩場に蜥蜴が棲みつき、獲物を食い尽くした。そして鷲は、家畜に手を出すしかなくなった。


 筋は通る。猟師の言うことだ。罠にかかる獲物が消えたという実感には、嘘の混じる余地がない。

 嘘でないとすれば。山羊や羊すら掴んで飛べる鷲が、縄張りを侵され餌場を変えた。蜥蜴を排除するよりも、人間に近付く危険を冒す方が容易いと判断したのだ。


 風斬鷲を待ち続けることはできる。いずれ来るだろう。仕留めることもできるだろう。

 だが、オルドの言う通りなら、鷲を殺しても蜥蜴が残る。

 残ったらどうなる。グレンは、岩場の方角に目をやった。ここからは見えない丘の向こう。その蜥蜴が獲物を食い尽くす。岩場から兎も狐もいなくなる。なら、次はどこに向かう。


 餌のある場所だ。

 岩場の奥へ移動するか、出てくるか。


 山羊の鈴が鳴っている。柵の中で、白い背が無防備に揺れていた。


「特徴から言って岩石蜥蜴だな」


 人の倍の体躯。岩より硬い鱗。それが放牧地まで降りてくれば、被害は鷲の比ではない。鷲は空から来る。目で見え、空を仰げば備えもできる。だが岩石蜥蜴は夜陰に紛れる。巨大な蜥蜴が柵を壊して乗り越える。気付いたときには、囲いの中だ。村人にも危険が及ぶ。


 鷲を駆除する。蜥蜴が残る。蜥蜴が来る。また依頼を出す。


 この村に、その余裕があるとは思えなかった。

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