風呂のルール
その建物は冒険者街と商業区の境にあった。
周囲の木骨家屋とは違う、無骨な石積みの平屋。屋根の片隅から太い煙突が突き出し、白い湯気を絶え間なく吐いている。入り口の上に、古びた木の看板。湯気の絵が彫り込まれ、縁の塗料は剥げかけていた。
扉の隙間からも湯気が漏れ、夕暮れの空気の中で、そこだけが白くけぶっている。
ここに、緊急の任務が発生した。
風呂という未知の行事を、滞りなく完遂すること。
シャムロックが受付の台に銅貨を置いた。
「二人」
「はいよ」
受付の女が頷き、台の下から麻布を二枚取り出した。シャムロックが受け取り、一枚をグレンの胸に押しつける。
「ほれ」
手の中に残された麻布を見下ろす。粗い織りの、使い込まれて柔らかくなった布だった。
これで、何をどうするというのだ。
グレンが布を手に固まっている間に、シャムロックは奥へと歩き出していた。
「待っ、ちょっ、待っ」
グレンはシャムロックの上腕を掴んだ。指先が筋肉に食い込む。
「何」
「どっ——どこに! 行くんですか!」
平時のグレンにはありえない言葉遣いだった。あまりの動揺ぶりに、掴まれた方がうろたえる。
「どこにって……脱衣場だよ、脱衣場」
「えあ、ああ……脱衣、場」
脱衣場。服を、脱ぐ。
言われてみれば、当たり前だ。だが、脱いだ服はどうするのか。脱いでからどうするのか。手順が何一つわからない。
そしてこの麻布はなんだ。
グレンの足が、その場で固まってしまった。
その様子を、シャムロックがしばらく眺めていた。
「あのさあ」
面倒だ、という顔をしている。それでも言わずにはいられなかったらしい。
「なに」
精一杯平静を装った。
「お前、風呂の入り方、知らねーんだろ」
「はぁ!? なんで!?」
図星だった。弾かれるように向き直る。
「いや……なんでも何も……」
シャムロックの声に、隠しきれない引きが滲んだ。
「別に知らないなら知らないで、ちゃんと教えてやるから。そう怯えんな」
面倒くさいから、と目が言っていた。
「怯えてませんけど!?」
「はいはい……」
◆ ◆ ◆
靴を脱ぎ、脱衣場に入る。
石の床がひやりと足裏に触れた。壁際に木の棚が並び、他の客の衣服が雑に突っ込まれている。脱ぎ捨てられた革鎧、丸めた外套、泥のついた長靴。革と汗と、古い木の匂いが層になって鼻に届いた。奥の扉の磨り硝子越しに、白くぼやけた人影が動いている。
シャムロックは自分の装備を外しながら、淡々と説明を始めた。
「荷物はここに入れる。貴重品は受付に預ける。中に入ったら、まず身体を洗う。汚れたまま湯に入ると殺される」
「こわい」
「みんなで使う湯だからな」
グレンは硬い手つきで装備を外していく。
シャムロックに続いて、浴室に踏み込んだ。
湯気が、顔にぶつかる。
温かい。空気が重い。水気を含んだ空気が肌にまとわりつく。石と湯の匂いが鼻腔に広がり、視界が白く曇って、一瞬だけ方向を見失った。
広い石造りの浴室だった。床も壁も、黒ずんだ石が敷き詰められている。奥に大きな浴槽が二つ。手前のものから濃い湯気が立ち、奥のものは湯気が薄い。湯の張られた水面が、天窓から差し込む残光を受けて鈍く揺れていた。壁際には洗い場が並び、低い石の台と木の桶が点々と置かれている。先客が三人ほど。皆、湯に浸かるか、身体を洗うかしていた。誰もこちらを気に留めない。
「シ、シャムロック、置いてくな」
「置いてかねーよ」
シャムロックが壁際の木桶を一つ取り、手前の浴槽から湯を汲んだ。洗い場の石の台に腰を下ろす。グレンも倣って隣に座った。石が冷たい。湯気で温められた空気との落差に、尻が縮む。
シャムロックが柄杓で湯を汲み、自分の頭からかけた。湯が髪を伝い、肩を流れ、石の床へ広がって、排水の溝へと吸い込まれていく。
「こうだ」
手本というほどのものではなかった。ただ、先にやって見せているだけだ。
グレンは柄杓を握った。木の柄に、湯の温もりが移っている。
頭から湯を被った。
熱い。
川の水とは違う。冷たさで肌が引きつる感覚がない。湯が首筋を伝い、背中を流れ落ちていく。井戸の底でかぶった汚水の記憶が、熱い湯に押し流されていくようだった。
二杯、三杯と被るたび、身体の表面から何かが剥がれていくのがわかる。汚れだけではない。もっと古い、ずっと長いこと張りついていた何か。
シャムロックに倣い、洗い場の隅に備え付けられた石鹸を手に取った。獣脂と灰から作られたもので、握ると指の間で滑り、獣脂の匂いが鼻をつく。麻布に擦りつけてみると、泡立ちは悪い。それでも肌の上を滑らせると、汚れが浮き上がってくる感触があった。
腕を擦る。くすんだ色の泡が、肘を伝って流れ落ちた。
「……汚い」
納得がいくまで洗った。真剣に。頭の先から、足の指の間まで。
その間、シャムロックは浴槽の縁に腰掛け、片足だけを湯に浸していた。自分の作業はとうに終えている。
グレンを待っていた。
「湯船は好きなだけ浸かれ。出たくなったら出る。ルールはそれだけだ」
グレンは身体を流し終え、浴槽の縁に手をかけた。石の縁は、湯気で温まっている。
湯に、足を入れた。
温度が、足首から這い上がってくる。ふくらはぎ。膝。腿。沈むにつれて、水圧が身体を包んでいく。
肩まで浸かったとき、胸の奥から、長い息が漏れた。
止められなかった。
身体の力が、意思とは無関係に抜けていく。筋肉の芯に溜まっていた硬さが、湯の中でゆっくりと緩んでいった。肩。背中。腰。どこもかしこも張っていたのだと、今さら気づく。
天井を見上げた。湯気の向こうに、黒ずんだ石の梁が渡されている。梁から滴った雫が、水面に落ちて小さな輪を広げた。水音が壁に反響し、どこか遠くで、誰かの咳払いが響く。
言葉が出なかった。
感想を求められても、答えられなかっただろう。
名前のつかない感覚が、胸の内側に広がっている。快楽とも、安堵とも違う。もっと手前にある、原始的な何か。
隣で、シャムロックが目を閉じていた。
何も聞かない。何も言わない。
湯の匂いと、石鹸の残り香と、温い水の重さだけが、そこにあった。




