さすがに風呂入りたい
現場は商業区から一本裏に入った住宅街だ。石造りの二階家と、木骨の長屋が肩を寄せ合うように並んでいる。軒先に洗濯物が渡され、窓辺の鉢から蔓草が垂れていた。路地は細く、頭上を渡る物干し綱が陽を縞に切っている。
井戸はその一角、数軒の家に囲まれた小さな広場の中央にあった。共同井戸だ。日頃は近隣の女たちが水を汲み、立ち話に花を咲かせる場所なのだろう。
今は、誰も近寄っていない。
井戸から数歩離れた距離で、もう臭いがした。腐った肉と、停滞した水の匂い。甘く、重く、喉の奥に貼りつく。
二人で井戸を覗き込んだ。深い。光は底まで届かない。だが暗がりの奥に、何かが浮いているのはわかった。
「あー」
「あー……」
グレンは掌の上に小さな火球を生み、井戸の中に落とした。橙色の光が石壁を舐めながら降りていく。水面が近づくにつれ、輪郭が浮かび上がった。中型の野犬のようだ。毛皮が水を吸って膨れ、四肢が不自然な角度に広がっている。火球は底に近づくほど縮んだ。空気がよくない。水面に触れた瞬間、光は消えた。
「俺は……入れないな」
シャムロックが井戸の内径に目をやって言った。
「言わなくてもわかる」
この体躯で作業できるはずがない。住宅街の共同井戸など、どこも似たような大きさだ。グレンなら窮屈ながらも作業はできる。
上着を脱ぎ、作業着に替えた。魔術師の装いが揃うまでの間に着ていたチュニックだ。脱いだ衣服を片隅の木箱に積む。ローブは丁寧に畳んで、一番上に置いた。
シャムロックもマントと武装を外し、傍に積んでいく。武器も防具も、この作業には意味がない。どうせ濡れるからだろう、上半身は裸になっていた。
「作業できる程度まで水を汲み出す。そしたら降りて、あれに縄をかけてくれ。引き上げる」
手順は明確だった。グレンは一つだけ提案してみた。
「別に、ここからあれを焼却すれば」
「井戸が無事じゃ済まないだろ。何でもかんでも火力で解決しようとするのやめなさい」
「へーい」
シャムロックが綱を引き始めた。釣瓶が水面から上がるたび、重い水音と綱の軋みが交互に響く。グレンは汲み上げられた水を桶で受け、路地の端の排水溝まで運んで流した。水面には死骸から滲んだ脂が、虹色の膜を張っている。指先がぬるついた。
何十回と繰り返す。シャムロックが綱を引くたび、剝き出しの腕と背に筋肉が盛り上がった。いつの間にか、近所の女たちが家の戸口や窓辺から顔を覗かせている。井戸の汚れを心配しているのか、それとも別のものを眺めているのか——視線の向く先は、おおむね轆轤を回す男の方だった。
「目の保養だわぁ」
そんな声が聞こえた。
ようやく水位が作業可能な高さまで下がる。
命綱を胴に巻き、鼻と口を布で覆った。鉤縄を肩にかけ、井戸の縁に手をかける。
いくつかの光球を生んで井戸の中に漂わせた。淡い白光が石壁を照らし、苔と水垢の濡れた表面をぬらりと浮かび上がらせる。命綱の端は、シャムロックの手の中にあった。
「しっかり持ってろよ。落とすなよ」
「そういう台詞は、もっと肉をつけてから言え」
「ぐぬ……」
縁を越え、身体を内壁に預ける。腕で体重を支えながら、足場を探った。石壁に手を当てると冷たく、ぬるりとした感触が指に残る。苔と水垢が層をなしていた。
降りるほどに匂いが濃くなる。布越しでも腐臭が鼻腔の奥まで突き刺さる。壁が近い。肩が擦れる。
閉塞感に慣れることはない。
ただ、今は。
ちらりと視線を上に向けた。円く切り取られた空の中に、綱を握る男の影がある。視線に気づいたのか、手が止まった。
「どした。暗くて狭くて怖いか」
「怖くねぇよ!」
◆ ◆ ◆
足の裏が水面に触れた。冷たい。腐った水が靴の中に染み込んでくる。
膨張した死骸に鉤縄をかける。胴体の下に縄を回し、結ぶ。膨らんだ腹に手が触れると、張った表面が柔らかく沈んだ。毛皮は水を吸ってやたら重く、片手で持ち上げるだけで腕が軋む。
縄をかけ終え、上を見た。
「引け」
その一言で轆轤が回り、綱が張り、死骸がゆっくりと持ち上がっていく。石壁に擦れる音。水が滴り、壁を伝い、井戸の中で反響した。
グレンは壁に張りついて通過を待った。井戸の幅は狭い。死骸が上がる間、それはグレンの真上を通る。
水と体液が、頭上から降ってきた。
「ぶえっ、ぺっ!」
避けようがない。口元の布は一瞬で濡れ、腐臭どころか呼吸まで遮る。引きちぎるようにむしり取り、懐に突っ込んだ。
手の届く範囲をブラシで擦り、濁った水はシャムロックが釣瓶で汲み上げた。底に沈んだごみを集め、最後に自分が引き上げられる。
「お疲れさん」
縁にしがみついたところでシャムロックに引き抜かれた。息すら乱れていない。
地面に足がついて、グレンは自分の身体を見下ろした。全身ずぶ濡れで、得体の知れない汚れがこびりついている。一方のシャムロックは、汗と跳ね水で腕から胸が濡れている程度だ。それでも、一人で何十回と轆轤を回し続けたのはこの男だ。
「そっちのがしんどかったろ」
シャムロックは肩をすくめただけだった。
死骸は依頼主が衛兵に引き渡すというので、脇に寄せて布をかけた。井戸に石灰を投じれば、依頼は完了だ。
二日もすれば飲み水に戻る。そうすれば、女たちが水を汲み、また立ち話を始めるのだろう。
シャムロックがグレンを手招きする。隅に置かれた洗濯桶には、汲み置きの綺麗な水が溜まっていた。
手桶で頭から浴びせられる。冷たい水が死臭を流していく。
「さすがに風呂入りてぇな」
グレンに水を打ちながらシャムロックが言った。何気ない一言だった。
知らず、濡れた指先が丸まる。
風呂。
存在は知っている。湯気の立つ建物だ。身体を清潔に保つための施設なのだろう、という察しもつく。里にもあった。親代わりだった村長も、週に一度は通っていた気がする。ただ、自分が中に入ることは……招かれることは、なかった。
ここ、カリスタリアでも見かける。冒険者街と商業区の境のあたりに、石造りの建物がある。看板も知っている。
もう、与えられたものしか得られない子供ではない。それでも風呂を知らないままなのは。単に金がなかったからだ。
あと、未知の場所だから、何か怖い。
右も左もわからないまま、一人で突っ込んで失敗したくない。
「お、おお。風呂。風呂な」
「……」
自分でも、声がぎくしゃくしているのがわかった。シャムロックが、呆れた目でこちらを見ている。
「……何だよ」
「別に」




