街に残る澱
数日が経った。
霧の正体が変異大ガエルであったこと。冒険者ギルドの調査隊が討伐に成功したこと。魔術師の仕業ではなかったこと。評議会からの公式通達が市場の掲示板に貼り出され、乾いた紙の擦れる音とともに人の手を渡り、酒場では酒臭い息に混じって読み上げられ、街の隅々まで運ばれていった。
グレンはそれを何度か聞いた。言葉は同じでも、声の調子はそれぞれ違っていた。
街の空気は変わっていた。ただし、一つの色に塗り替えられたわけではなかった。
市場で果物を選んでいるとき、隣の女の声が耳に入った。熟れた果実の甘い匂いと、土の湿った匂いが混じる中で、その声は軽かった。
「魔術師じゃなかったんだってね」
連れに向けた言葉だった。安堵が混じっている。間違っていたことへの引っかかりは薄く、ただ肩の力が抜けたような響きだった。
別の日、酒場の隅にいたときは違った。酒と脂の匂いがこもる中で、霧の話題が出た瞬間、空気がわずかに沈んだ。誰かが杯に口をつける音がやけに大きく聞こえた。数週間にわたって声高に「魔術師が」と言っていた男たちの何人かは、視線を合わせず、話題そのものを避けた。
グレンはその様子を見ていた。何も言わない沈黙が、そのまま残っていくのを感じていた。
通りを歩いているとき、背後から投げられた声もあった。
「疑われるような格好をしてる方が悪いんだよ」
振り返らなかった。誰に向けられた言葉かは分からない。分からないままでいいと思った。足音だけが石畳に乾いた音を残した。
薬草屋では、乾燥した葉の匂いが鼻についた。棚を整えていた女が、手を止めずに言った。
「でもさ、変なモンスターが出たのは大森林でしょ。あの森から出てくるものなんて、元をたどれば全部魔術がらみじゃないの」
責める調子ではなかった。素朴な疑問として、ただそう考えている声だった。
グレンは答えなかった。その理屈がどこで噛み合わなくなるかを説明しても、届かない種類のものだと分かっていた。
変わったものがある。変わっていないものがある。変わりたくないものがある。
一つの事実が一つの結論を生むほど、感情は単純ではなかった。
グレンは何も言い返さなかった。
◆ ◆ ◆
シャムロックは宿への帰り道を歩いていた。冒険者街のランタンが等間隔に並び、油の匂いをほのかに漂わせながら揺れている。光の輪をくぐるたびに、影が足元で伸びては縮んだ。
すれ違う人間の中に、顔があった。
中年の男だった。労働者の身なりで、袖口は擦り切れ、手の皮膚は固くひび割れている。顔にはこれといった特徴がなく、記憶に残らない種類の顔だ。
だがシャムロックは、あの日の大通りでグレンを突き飛ばした腕を覚えていた。
男がシャムロックに気付く。
シャムロックは足を止めなかった。呼びかけもしなかった。表情も変えなかった。ただ歩きながら、男の方へ視線を向ける。
それだけだった。
男の顔から血の気が引いた。喉の奥で何かが詰まったような音を立て、足早に視線を逸らし、路地へと消えた。
シャムロックは前を向き直した。呼吸の調子も歩幅も変わらないまま、宿へ向かった。扉を押し、軋む音を背に受けて中に入り、階段を上がる。自室に入り、寝台に腰を下ろし、靴を脱いで横になった。
◆ ◆ ◆
翌朝、グレンは路地を一本入った場所に立っていた。湿った石壁の冷気が空気に残り、通りの喧騒が少し遠くなる。
小さな看板が目に入る。「魔術用品店」と彫られている。意識して見なければ見落とす位置だ。
窓が新しくなっていた。以前は板で塞がれていた場所に、硝子がはめ込まれている。朝の光が淡く反射していた。扉は閉まっているが、鍵はかかっていないと分かった。
手で押すと、蝶番が低く鳴いた。
木と油と乾いた薬草の匂いが流れてきた。前に来たときと同じ匂いだった。
店主が棚を直していた。布で棚板を拭き、割れた瓶の跡を丁寧に消している。グレンを見て、一瞬だけ手が止まった。
「無茶な使い方はしていないか」
「してない」
「本当か」
「……寝込みを襲われて、素手でぶっ放した」
店主は鼻を鳴らした。消耗品の棚から瓶を二つ取り出し、カウンターに置いた。ガラスが触れ合う硬い音がした。杖用の油と傷薬だった。
「持っていけ。――戦いに出ていたんだろう。店を閉めていた間に、噂は聞いた」
グレンは代金を出した。硬貨の冷たさが指に残った。店主はそれを受け取った。それだけでやり取りは終わった。
棚に目をやる。右端に、新しい杖が一本立てかけてあった。前にはなかったものだった。
「また開いて、よかった」
店主は手を止めなかった。
「店だからな」
グレンは頷いた。それ以上の言葉は出てこなかった。
扉に手をかける。
外に出ると、シャムロックが壁にもたれていた。石壁の冷たさを背に受け、腕を組み、通りの向こうを眺めている。店の中には入らなかったらしい。
グレンに気づくと、背中を壁から離した。
「買い物終わった?」
「ああ」
「飯行こう」
二人は歩き出す。
背後で扉が閉まり、木が合わさる音がした。中では、布で棚板を拭く擦れる音が、変わらず続いていた。
第二話「セルディアへ」をお読みいただきありがとうございます。
街の空気はまだ澱んでいますが、二人の日常は続きます。
第三話もお付き合いいただけると幸いです。ブックマーク・評価をいただけると励みになります。




