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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
交易都市セルディア

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記録と感情

 ナッシュとドーランが荷馬を引いてベースキャンプに現れたのは、翌日の昼過ぎだった。


 焚き火はもう消えている。キャンプの端には布をかけた塊がひとつあり、その傍らでシャムロックが寝転がっていた。昨日と同じように、あまり働いていないように見える姿だった。


 グレンは杖を抱えて座っていた。左腕を庇うようにして、片手で拭いていた。


 リーナは木の根元に座り、布を巻いた両手を膝の上に置いていた。ミレイアがその傍にしゃがみ、右手へ治癒の光を当てている。淡い光が布の隙間から滲み、焼けた皮膚の匂いをかすかに押し返していた。


 ナッシュは荷馬の手綱を木に結びながら、布のかかった塊に目をやった。形と大きさで察したのだろう。声に驚きはなかった。


「終わったのか」

「終わった」


 シャムロックが寝転がったまま答えた。


「昨夜来た。俺が小便に行っている間に」


 ナッシュの足が止まった。ドーランの視線も、そこで初めてシャムロックへ向いた。


「……小便」

「小便」


 妙な間が落ちた。ナッシュとドーランは布をめくり、灰褐色の死体を確認した。扁平な頭部を貫かれた穴。乾きかけた体表。顎の下から地面まで、剣で縫い止めたような跡が残っている。皮膚には、まだ粘つく光沢がわずかに残っていた。


「俺が離れた隙に来やがった。リーナが見つけて殴って、グレンが痺れさせて、俺がとどめを刺した」

「……リーナが殴った?」

「薪で」


 ナッシュがリーナの方を見た。リーナは布を巻いた両手をひらひらと振る。


「焼けちゃった」


 ナッシュは額に手を当てた。何か言いたそうだったが、結局は「無事でよかった」とだけ言った。ドーランは黙ったまま、死体を荷馬へ積み始める。重い肉塊が布ごと持ち上がり、車体がぎしりと鳴った。


「あいつ、シャムロックが離れるのを待ってたんだな」


 グレンは杖を拭く手を止めずに言った。


「ずっと見てたんだろう。隙を探して。シャムロックが離れた瞬間に来た」

「おちおちおしっこもできやしねぇ」

「臆病で、頭が悪くて、警戒心だけは異常に強い。お前の予想が全部当たってた」


 素直な称賛だった。シャムロックは起き上がりかけた姿勢のまま、頭を掻いた。顔つきは不本意そうだったが、どこか妙に落ち着かない様子でもある。


「予想できてたのに出し抜かれたってことだろ」


 その声から、いつもの軽さが少し抜けていた。的中したことへの満足ではなく、的中していたのに防げなかったことへの、別の重さが混じっているように聞こえた。


「嬉しくねぇな」


 シャムロックは頭を掻いたまま、それ以上は言わなかった。

 荷をまとめ、焚き火の跡を整え、六人は街道へ出た。

 補給物資は不要になってしまったが、解散時に清算すればいい。そういう話になった。霧のない街道は、昼の光の下で妙にのどかだった。木漏れ日が轍に落ちて、風が草の匂いを運んでくる。すれ違う隊商の御者が、荷馬の上の布をかけた塊を二度見し、六人の装備と顔を見比べて、何も言わずに通り過ぎた。


 帰路は穏やかだった。リーナが何かの鼻歌を歌い、ミレイアがそれに合わせて小さく口ずさんでいた。ナッシュとドーランが荷馬を引き、シャムロックが殿を歩く。グレンはその斜め前にいた。馴染んだ配置だった。歩幅まで、昨日までとほとんど変わらない。違うのは、荷馬の上にある布の塊だけだった。


 ◆ ◆ ◆


 夕刻迫るセルディアの西門で、兵士に緊張が走る。荷馬の上の死体に、兵士の目が張り付いていた。布を少しめくらせてくれと言われ、ドーランが端を持ち上げる。兵士の顔が一瞬で引きつった。灰褐色の肌。扁平な頭部。乾きかけた体液の匂いが、風に乗って鼻を刺す。


「……これは」

「霧の原因です。冒険者ギルドへの報告案件なので、通していただきたい」


 ナッシュが冒険者証を差し出した。兵士は死体と証を交互に見て、もう一度死体を見て、それから短く手を振った。


「――通れ」


 城門をくぐる。


 数日前セルディアに来たとき、グレンは生成りのチュニックを着ていた。今はローブを着ている。左肩に布が巻いてある。杖を持っている。


 同じ街に、違う姿で戻ってきた。


 ◆ ◆ ◆


 冒険者ギルドの裏口から死体を搬入口へ回し、素材買取の手続きを済ませた。鑑定士が一目見て固まり、もう一度見てから、慌てて記録帳を引っ張り出す。その反応だけで、ただの害獣ではないとわかった。


 ルドガーが支部長室から降りてきたのは、鑑定士が報告を上げた直後だった。


「ご苦労だったね」


 六人はロビーの端の卓についた。木の天板には細かな傷が重なり、何度も肘を置かれた痕がついている。ナッシュが経緯を報告した。調査中の流れ。霧獣の行動圏。攻撃手段。摂食方法。霧化能力。三日目夜の奇襲と討伐の詳細。


 グレンも補足した。変異大ガエルの生態。魔力を食う習性。舌の構造。霧化と実体化の移行に伴う脆弱性。自分の言葉で整理していくうちに、あの夜の湿った匂いと、舌が掠めた左肩の痛みまで、少しずつ輪郭を持っていくようだった。


 報告が終わると、ルドガーは二つの判断を述べた。


「まず、この変異種は記録上前例がない。ギルド本部に上申する。変異の原因は不明だが、大森林浅層域の生態系に異常が発生している可能性がある。継続的な監視が必要だと本部に進言する」


 そこで一拍置く。


「それから、霧の原因が魔術師ではないことを、評議会に正式通達する。公式記録に残す」


 ナッシュが頷いた。ドーランが腕を組んだまま目を閉じる。リーナが布を巻いた手で頬杖をつき、ミレイアが小さく息を吐いた。卓の上に張りついていた緊張が、少しだけ緩むのがわかった。

 ルドガーが書類を一枚引き出した。


「ついでだ。これも片づけておこう」


 見覚えのある書式だった。掲示板に貼られていた、ベオルン盗賊団討伐の報告書だ。討伐者の欄が、空白のまま残されている。

 ルドガーがペンを取る。インク壺に先端を浸し、空欄に二つの名前を書き込んだ。


「遅くなったが、これが正式な記録だ」


 グレンはそれを見ていた。

 名誉が欲しかったわけではない。それは最初から変わっていない。だが、空欄だった場所に自分の名前が書かれるのを見たとき、胸の奥に沈んでいた名前のつかない澱が、少しだけ軽くなった気がした。

 ほんの少しだけだ。


「ただ、街の空気がすぐ変わるとは限らない」


 ルドガーはペンを置いた。


「制度は私の仕事だ。感情は……時間の仕事だな」


 その言葉は、木の卓の上に置かれたインクの匂いのように、静かに残った。

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