至近距離の死線
リーナの絶叫で、グレンの瞼がはね上がった。
意味が届くより先に、身体が動いていた。耳の奥に「カエル」という音だけが引っかかる。理解は追いつかない。だが本能だけが、すぐ隣に何かがいると告げていた。
鼻腔に湿った臭気が刺さる。泥と腐肉が混ざったような、生温い匂いだった。寝袋の布越しに、ぬめる圧が迫っているのがわかる。空気が違う。そこだけ、重く、濁っていた。
考える暇はなかった。
グレンは反射で寝返りを打った。
鈍い打撃ではない。内部に潜り込むような感触だった。胸の中心を貫くはずだった軌道が、半身をずらしたことで逸れている。だが完全には外れていない。肉を裂き、筋を押し分ける硬い異物が、肩を抉って抜けていく。
遅れて、焼けるような痛みが弾けた。
息が止まる。喉がひくつく。声が出ない。
視界の端で、黄色が揺れた。目だった。
至近距離に、濁った黄色の光があった。
人の頭ほどもある扁平な顔。横に裂けた口。灰褐色の体躯が、寝袋のすぐ脇で低く沈み込んでいる。湿った皮膚は熾火の赤を鈍く弾き、ぬめりを帯びた光沢を放っていた。熱と湿気が混ざり合い、肌にまとわりつく。
息を吸った瞬間、肩の傷が鋭くひりついた。呼吸が浅くなる。肺に空気が入りきらない。
舌が引き戻される。
粘ついた液体が糸を引くような気配が、耳の奥で擦れるのを感じた。
次が来るのか。刺すか、離脱か。
そこへ、横から衝撃が叩き込まれた。
鈍い打撃音とともに火花が弾ける。赤く熾きた薪が灰褐色の皮膚にめり込み、粘液が焼ける。じゅ、と湿った音がして、焦げた臭気が爆ぜた。
鼻の奥に熱が流れ込む。舌の上に苦味が広がる。
大ガエルが跳ねた。
火を嫌う反応が全身に走っている。筋肉が一斉に収縮し、湿った体躯が弾かれるように横へ飛ぶ。
二歩分の距離が空いた。
「離れろこのッ――!」
リーナが薪を振り回す。二度目の一撃が、大ガエルの顔の前を掠めた。炎の残り火が黄色い目を照らし、相手は怯んだように後ずさる。だが、まだ逃げてはいない。リーナの脇越しに、なおグレンを見ている。
グレンは左肩を押さえながら身を起こした。
熱い。指の間から血が滲む。左腕全体に、鈍い痺れが広がっていた。杖は、傍らに置いてあったはずだ。だが寝返りで位置がずれ、暗がりに隠れてしまっている。今は見えない。探している時間はない。
右手を突き出す。
魔力を圧縮する感覚が、指先で軋む。
制御が粗い。十分に練れていない。だが止めるわけにはいかない。
杖を介さない放出だった。
距離が近すぎる。自分にも反動が来ることはわかっていた。
閃光が視界を焼く。
紫白の光が一瞬で膨れ上がり、湿った体表を這う。
電流が皮膚を伝い、筋肉を強制的に収縮させる。
焦げた臭いが立ち上り、空気が乾く。
大ガエルの四肢が投げ出された。
関節が勝手に弾かれ、体躯が痙攣する。
黄色い目が焦点を失い、ぐるりと回る。
同時に、自身の放った電撃が牙を剥く。
右腕の内側で何かが爆ぜる。
神経を焼くような痛みが走り、指先から肘までが一瞬で麻痺した。
腕が落ちる。
もう一発は出せない。
大ガエルは倒れている。
痙攣が続いている。だが、それだけだ。
殺し切れていない。
次の瞬間、リーナが動いた。
燃え残った薪の先端を、痙攣する大ガエルの顔面に押しつける。
じゅっ、と嫌な音がした。
粘液が熱せられ、鼻をつく臭気が一気に濃くなる。
大ガエルの口から、初めて声らしいものが漏れた。
高く細い、蛙とは思えない悲鳴だった。
火傷を負わせ、怯ませ、押さえつけることはできる。
だが、これでも殺し切れない。薪では、この体躯に致命傷は与えられない。
リーナの手が焼けているのが見えた。
皮膚が赤くなり、煙が上がりかけている。
大ガエルの痙攣がほどけ始めていた。
筋肉が制御を取り戻す。
体表の輪郭がわずかに薄れる。
霧化の兆候だった。
まずい。
グレンは右手を持ち上げようとした。
動かない。
指先に感覚がない。
熱と痺れが混ざり、もう自分の腕ではないようだった。
リーナが薪を押し直す。
歯を食いしばる音が聞こえた。
限界が近い。
そのとき、音がした。
重い足音だった。
枝が折れる。下生えが潰れる。一直線に、迷いなく近づいてくる。
シャムロックだった。
シャムロックが木立を割って飛び出す。
ベルトは留まっていない。上着の前は開き、左手はズボンの腰を掴んでいる。髪は枝に引っかかり、乱れていた。寝起きそのままの無防備な格好だったが、動きには一切の迷いがない。
左手が離れた。
ズボンが腰骨まで下がるのも構わず、両手で剣を握り直す。
リーナが薪を引いた。
その動きと、シャムロックの踏み込みが重なった。リーナが開けた一瞬の空間へ、刃が滑り込む。
刃が扁平な頭部を貫き、そのまま地面へ縫い止める。硬い芯を砕く感触が、鈍い振動となって空気に伝わる。肉と軟骨を裂く湿った音が、遅れて耳に届く。
大ガエルの四肢が、ひときわ大きく痙攣し、動かなくなった。
黄色い目から、光が消えた。




