表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
交易都市セルディア

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/73

至近距離の死線

 リーナの絶叫で、グレンの瞼がはね上がった。


 意味が届くより先に、身体が動いていた。耳の奥に「カエル」という音だけが引っかかる。理解は追いつかない。だが本能だけが、すぐ隣に何かがいると告げていた。


 鼻腔に湿った臭気が刺さる。泥と腐肉が混ざったような、生温い匂いだった。寝袋の布越しに、ぬめる圧が迫っているのがわかる。空気が違う。そこだけ、重く、濁っていた。


 考える暇はなかった。


 グレンは反射で寝返りを打った。


 鈍い打撃ではない。内部に潜り込むような感触だった。胸の中心を貫くはずだった軌道が、半身をずらしたことで逸れている。だが完全には外れていない。肉を裂き、筋を押し分ける硬い異物が、肩を抉って抜けていく。


 遅れて、焼けるような痛みが弾けた。

 息が止まる。喉がひくつく。声が出ない。

 視界の端で、黄色が揺れた。目だった。

 至近距離に、濁った黄色の光があった。


 人の頭ほどもある扁平な顔。横に裂けた口。灰褐色の体躯が、寝袋のすぐ脇で低く沈み込んでいる。湿った皮膚は熾火の赤を鈍く弾き、ぬめりを帯びた光沢を放っていた。熱と湿気が混ざり合い、肌にまとわりつく。


 息を吸った瞬間、肩の傷が鋭くひりついた。呼吸が浅くなる。肺に空気が入りきらない。

 舌が引き戻される。

 粘ついた液体が糸を引くような気配が、耳の奥で擦れるのを感じた。


 次が来るのか。刺すか、離脱か。


 そこへ、横から衝撃が叩き込まれた。


 鈍い打撃音とともに火花が弾ける。赤く熾きた薪が灰褐色の皮膚にめり込み、粘液が焼ける。じゅ、と湿った音がして、焦げた臭気が爆ぜた。

 鼻の奥に熱が流れ込む。舌の上に苦味が広がる。

 大ガエルが跳ねた。


 火を嫌う反応が全身に走っている。筋肉が一斉に収縮し、湿った体躯が弾かれるように横へ飛ぶ。

 二歩分の距離が空いた。


「離れろこのッ――!」


 リーナが薪を振り回す。二度目の一撃が、大ガエルの顔の前を掠めた。炎の残り火が黄色い目を照らし、相手は怯んだように後ずさる。だが、まだ逃げてはいない。リーナの脇越しに、なおグレンを見ている。

 グレンは左肩を押さえながら身を起こした。

 熱い。指の間から血が滲む。左腕全体に、鈍い痺れが広がっていた。杖は、傍らに置いてあったはずだ。だが寝返りで位置がずれ、暗がりに隠れてしまっている。今は見えない。探している時間はない。


 右手を突き出す。

 魔力を圧縮する感覚が、指先で軋む。

 制御が粗い。十分に練れていない。だが止めるわけにはいかない。


 杖を介さない放出だった。

 距離が近すぎる。自分にも反動が来ることはわかっていた。


 閃光が視界を焼く。


 紫白の光が一瞬で膨れ上がり、湿った体表を這う。

 電流が皮膚を伝い、筋肉を強制的に収縮させる。

 焦げた臭いが立ち上り、空気が乾く。


 大ガエルの四肢が投げ出された。

 関節が勝手に弾かれ、体躯が痙攣する。

 黄色い目が焦点を失い、ぐるりと回る。


 同時に、自身の放った電撃が牙を剥く。


 右腕の内側で何かが爆ぜる。

 神経を焼くような痛みが走り、指先から肘までが一瞬で麻痺した。

 腕が落ちる。

 もう一発は出せない。


 大ガエルは倒れている。

 痙攣が続いている。だが、それだけだ。

 殺し切れていない。


 次の瞬間、リーナが動いた。

 燃え残った薪の先端を、痙攣する大ガエルの顔面に押しつける。


 じゅっ、と嫌な音がした。

 粘液が熱せられ、鼻をつく臭気が一気に濃くなる。

 大ガエルの口から、初めて声らしいものが漏れた。

 高く細い、蛙とは思えない悲鳴だった。


 火傷を負わせ、怯ませ、押さえつけることはできる。

 だが、これでも殺し切れない。薪では、この体躯に致命傷は与えられない。

 リーナの手が焼けているのが見えた。

 皮膚が赤くなり、煙が上がりかけている。


 大ガエルの痙攣がほどけ始めていた。

 筋肉が制御を取り戻す。

 体表の輪郭がわずかに薄れる。

 霧化の兆候だった。


 まずい。


 グレンは右手を持ち上げようとした。

 動かない。

 指先に感覚がない。

 熱と痺れが混ざり、もう自分の腕ではないようだった。


 リーナが薪を押し直す。

 歯を食いしばる音が聞こえた。

 限界が近い。


 そのとき、音がした。

 重い足音だった。


 枝が折れる。下生えが潰れる。一直線に、迷いなく近づいてくる。


 シャムロックだった。

 シャムロックが木立を割って飛び出す。

 ベルトは留まっていない。上着の前は開き、左手はズボンの腰を掴んでいる。髪は枝に引っかかり、乱れていた。寝起きそのままの無防備な格好だったが、動きには一切の迷いがない。


 左手が離れた。

 ズボンが腰骨まで下がるのも構わず、両手で剣を握り直す。

 リーナが薪を引いた。


 その動きと、シャムロックの踏み込みが重なった。リーナが開けた一瞬の空間へ、刃が滑り込む。


 刃が扁平な頭部を貫き、そのまま地面へ縫い止める。硬い芯を砕く感触が、鈍い振動となって空気に伝わる。肉と軟骨を裂く湿った音が、遅れて耳に届く。


 大ガエルの四肢が、ひときわ大きく痙攣し、動かなくなった。


 黄色い目から、光が消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ