霧の正体
大森林――調査・三日目。
霧は出ない。
湿った土の匂いと、葉擦れの乾いた音だけが、森の中に満ちている。やはり警戒しているのだ。
三刻目に差しかかろうとしたころ、頭上から鋭い声が降ってきた。
「ナッシュ!」
リーナだった。高所から見張ると言って登った木の上で、枝葉を揺らしながら叫んでいる。張り詰めた声音が空気を切り裂いた。
「街道に霧が出てる!」
全員が一斉に顔を上げた。差し込む光が揺れ、葉の隙間から白い空が覗く。リーナの指が南東――街道の方角を鋭く指し示していた。
こちらを警戒している。シャムロックの存在を把握している。だから、狙いを逸らした。
「馬車だ。街道を通る馬車がいる。奴はそっちに行った」
「行くぞ」
ナッシュが即座に地面を蹴った。湿った落ち葉が弾ける音がする。シャムロックが軽く追いつき、ドーランが重い足取りで後に続く。リーナが枝を蹴って地面に降り、ミレイアの手を引いた。
森を突っ切る。
枝が頬を打ち、細い小枝が皮膚に擦れて痛みを残す。湿気を含んだ空気が肺に重く流れ込み、呼吸が荒くなる。足元の根が靴底に引っかかり、わずかに体勢を崩す。汗が背中を伝い、衣服の内側にじっとりと張り付いた。
木々の密度が薄れ、視界が開ける。白が目に飛び込んできた。
街道の一角だけが、不自然に白く濁っている。
昼の陽光の下で、その白は異様に浮き上がって見えた。周囲の空気は澄みきっているのに、そこだけが切り取られたように霞み、温度さえ違っているように感じる。冷たい湿気が、遠目にも肌にまとわりつく気配を放っていた。
グレンは霧の手前で足を止めた。
呼吸を整える余裕はない。肺が熱を帯びている。指先に魔力を集中させ、杖を掲げる。
風が、唸りを上げて立ち上がった。
地面の砂を巻き上げ、霧を上へと引き剥がす。薄い層から順に裂け、白が裂帛のように千切れていく。湿った冷気が肌を撫で、鼻にかすかな腐臭が混じった。
視界が、戻る。
最初に現れたのは、横転した荷馬車だった。
車輪が空を掻き、軋んだ木材の匂いが漂う。積荷が街道に散乱し、破れた幌がだらりと垂れ下がっている。馬が一頭、車体に繋がれたまま横たわっていた。脚が不自然に折れ曲がり、苦しげに首を振るたびに、荒い息が白く漏れる。
その手前。
街道に、人が投げ出されていた。
護衛だと一目でわかる革鎧の男が仰向けに倒れている。
その上に、いた。
遺体に覆い被さるように、張り付いている。
灰褐色の肌がぬめりを帯び、光を鈍く反射していた。蹲った姿勢でも人の胴ほどの体躯。四肢は太く短く、水掻きのある指が路面を押さえつけている。背は瘤のように盛り上がり、不規則な突起が並んでいる。顔と呼べる構造は曖昧で、扁平な頭部の両側に、黄色い目だけが張り出していた。
その目が、こちらを捉えた。
大ガエルだった。
だが、知識にあるものとは明らかに異なる。異様に大きい。肌の色が濁り、腐った水のように沈んでいる。そして何より、行動が違った。
獲物を丸呑みにしない。
ただ触れているだけだった。腹を押し当て、動かずに。
魔力を、吸っている。
グレンの風が霧を剥がした瞬間、黄色い目に浮かんだものを、彼は見逃さなかった。
それは敵意ではない。
恐慌だった。
見つかったことへの純粋な怯え。餌を奪われかけた獣の、反射的な恐怖。
次の瞬間、体表が変質した。
灰褐色の肌が、縁から透けていく。水に溶ける絵の具のように、輪郭が滲み、質感が崩れる。四肢が霧へと沈み込み、胴体が淡く拡散していく。
「グレン!」
「わかってる!」
杖を突き出す。
雷撃が走った。紫電が空気を裂き、霧の中心を一直線に貫く。瞬間、空気が焦げる匂いが立ち上る。
だが、手応えがない。
霧と化した身体を、電撃がすり抜けている。
「リーナ!」
ナッシュも叫んだ。
矢が放たれる。弦の震えが耳に残る。リーナの射は正確だった。霧の中にわずかに残る凝集の核を、読み切っている。
しかし、矢は白を裂いただけだった。
すでに実体は消えている。
シャムロックとナッシュが同時に踏み込む。地面を蹴る衝撃が足裏に伝わる。剣が抜かれ、空気を切る。
遅い。
二人の刃が到達したとき、そこには何もなかった。
霧は地面を這うように広がり、草の隙間へと染み込んでいく。湿った冷気が足首に絡みつき、やがてそれも消えた。土を踏み荒らしても、手応えはない。沼地の方角へか、あるいは地中へと、大ガエルは完全に逃げ切っていた。
六人は街道の上に立ち尽くした。
「ち、治癒を」
ミレイアが駆け寄るが、ナッシュは首を振った。
「もう死んでる」
壊れた馬車の軋み。怯えた馬の荒い呼吸。血と土と湿気の匂いが混ざる空気。
そして、静けさ。
そのとき。
「こっち! 生きてる!」
リーナの声が空気を破った。
視線を向けると、路肩にもう一人倒れている。御者だろう。草の上に投げ出され、右腕が不自然に曲がっている。額から血が流れ、土に黒く滲んでいた。目は開いているが、焦点が合っていない。何が起きたのか理解できていない顔だった。
「ミレイア!」
「はい!」
ミレイアが駆け寄る。足音が軽く、しかし迷いがない。掌に淡い光が灯り、温かな気配が空気に広がる。額に手を翳すと、血の流れがゆっくりと止まる。折れた腕に光を当てると、軋むような音とともに痛みが抑えられていく。
彼女はそのまま馬のもとへ走った。
怯えて暴れかける馬の首を撫で、柔らかな声で宥める。荒い息が次第に落ち着き、震えが収まっていく。折れかけた脚に光を当てると、筋肉の緊張が緩み、わずかに体勢が安定した。
◆ ◆ ◆
ナッシュが護衛の遺体を調べ告げる。
「胸に穿孔が一つ。他の損傷なし。今までの被害者と同じだ」
「魔力は」
「護衛だ。最低限の身体強化はできたんだろう」
グレンは遺体を見下ろした。魔力の痕跡はほとんど残っていない。乾いた空虚だけがある。
「御者は無事か」
「腕の骨折と打撲。命に別状はない。ミレイアが処置した」
六人はその場に留まった。御者の呼吸が落ち着くのを待ちながら、状況を組み立てていく。
グレンが口を開いた。
「……見たな」
全員が無言で頷く。
「あれが霧の正体だ。大ガエルの変異種だ。身体を霧に変える能力を持っている」
「霧の中に隠れていたんじゃなかった」
ナッシュの声は低く、確信を帯びていた。
「霧そのものが、あいつだった」
「そうだ。だから霧を散らしても戻る。凍らせても意味がない。あれは自然現象じゃない。奴の身体の一部だ」
「なんでもありだな」
シャムロックが露骨に顔をしかめた。心底嫌そうな声で呻く。
「俺たち、今まであいつ吸ってたってことかよ」
「なんでそういうこと言うんですか!?」
ミレイアが涙目で抗議した。




