霧に触れた刃
大森林――調査・二日目。
二日目の朝は、雲一つない快晴だった。高い空から落ちてくる光が葉を透かし、湿った地面からはわずかに蒸気が立ち上っている。踏みしめるたびに、腐葉土が柔らかく沈んだ。
ベースキャンプから沼地方面へ向かう道すがら、グレンは背後の気配に眉をひそめた。
「近くない?」
「近くない」
「近いって」
「近くないって」
振り返らずともわかる。シャムロックが真後ろに張り付いている。吐息が首筋にかかるほどの距離ではないが、腕を伸ばせば触れる距離だった。
昨日までの殿の位置ではない。完全に護衛の位置だ。
理由はわかりきっていた。グレンは昨日、標的の座暫定一位にのし上がった上に、攻撃に反応もできず、障壁も一撃で割られている。最も簡単に死ぬ人間だ。
「鬱陶しい」
「死なれる方が鬱陶しい」
「ぐぬ……」
言い返せなかった。
先頭のナッシュが振り返り、苦笑する。リーナが肩を揺らし、ミレイアは曖昧な表情で視線を泳がせた。ドーランだけが一定の歩調を崩さず、前を見続けている。
昼過ぎに沼地の周縁を巡回しているときだった。
霧が出た。
昨日と同じように、足元から白が這い上がる。湿った冷気が靴を包み、脛を撫で、腰のあたりまで一気に広がる。視界が鈍く曇り、木々の輪郭が溶けた。
空気が重くなる。肺に入る空気がわずかに粘つく。
ナッシュたちの姿が霧に飲まれていく。自分の手の甲すら、すぐ先で霞んだ。
魔力の密度が上がる。
皮膚の表面に、細かな振動がまとわりつく感覚。昨日の記憶が身体に残っていた。ミレイアの声を待つまでもなく、グレンは杖を握り直す。
「来ます!」
ミレイアの声が霧の中で揺れた。
魔力が収縮する。散っていたものが、一点へ引き寄せられていく。空気そのものが引き絞られるような圧。
昨日と同じ予兆。
グレンは身を低くしようとした。
その瞬間、襟元が強く引かれた。
「ぅぐぇっ」
喉に布が食い込み、息が詰まる。視界が横に流れ、身体が半ば引き倒されるように動いた。地面の感触が足裏から一瞬消える。
次の瞬間、耳元を風が裂いた。
何かが振り抜かれた音。
ほとんど同時に、空気が断ち切られる鋭い感触が頬を掠めた。
霧の中に、裂け目が走る。
その奥で、何かが断たれた。
グレンの感覚に、はっきりとした「抵抗」が残った。硬質でも柔軟でもない。刃が沈み込み、押し返され、そして抜けるような、弾力を伴った感触。
湿った飛沫が、頬にかかった。
冷たい。わずかに粘る。金属臭はない。
魔力が、引いた。
さっきまで満ちていた圧が、一瞬で霧散する。昨日と同じだ。一撃が通らなければ、即座に退く。
霧が足元から薄れていく。白が剥がれるように消え、視界が戻る。
グレンは喉を押さえ、荒く息を吐いた。ひりつく痛みが残っている。
案の定シャムロックが剣を構えたまま立っていた。動かない。周囲を警戒しているのが、わずかな視線の動きでわかる。
やがて霧は完全に晴れ、森の色が戻った。
「――引いたか」
シャムロックが剣を下ろす。刃の半ばほどから、透明に近い粘液がべったりと張り付いていた。光を受けて鈍く反射している。
グレンは咳き込みながら言った。
「お前……ことあるごとに襟掴んで引っ張るのやめろ……!」
「咄嗟に持ちやすくていい」
悪びれない声だった。
仕立て屋での記憶が蘇る。スケッチを覗き込んできた指。襟が高く、裾に深い切り込みの入ったデザインを指して、「俺これが好き」と言った顔。
「こっちのデザインが好きって言ってたの、そういうこと……!?」
「さあ。何のことだか」
どこか満足げに見えた。気のせいかもしれないが、確かめる気にはならなかった。
「斬ったのか」
ナッシュが駆け寄る。
「手応えはあったが」
「……これは」
ナッシュが剣の粘液を見て眉を寄せる。ドーランも近づき、無言で指先に少量を取り、指で伸ばして質感を確かめた。
「血じゃないな」
「ああ。粘膜か、分泌液か」
グレンは粘液を見つめた。光を鈍く弾く半透明の膜。生温い感触が頬に残っている。
生物の体表由来であることは間違いない。
だが。
これだけの粘液を分泌する存在が、あの霧の中にいるなら——霧が散った後に姿が見えないのはおかしい。
霧を払えば、露出するはずだ。
しかし、いなかった。
つまり。
「霧と一緒に消えた……」
その日も、二度目の霧は出なかった。




