焚火と魔力の匂い
その日、二度目の霧は現れなかった。
陽が沈みきる前にベースキャンプへ戻り、六人は焚き火を囲んだ。湿った薪がぱちぱちと爆ぜ、白い煙が夜気に溶けていく。
ナッシュが火を見つめたまま口を開いた。
「ターゲットが変わっていた」
ぱちり、と火が弾けた音に重なるように、全員の視線がグレンへ向く。熱が頬に当たるのを感じながら、グレンは目を逸らさなかった。
「今までの調査では、攻撃は常にミレイアに向いていた。今日は違う。グレン、君に来た」
「ああ」
短く答える。皮膚に残る、あの霧の冷たい圧迫感がまだ消えていない。
「何が変わったんでしょう」
ミレイアが首を傾げる。火の明かりがその横顔を揺らしていた。ナッシュは腕を組み、煙を一度吐き出してから言う。
「とりあえず女好きの線は消えたな」
「美味しそうな匂いがしてるとか」
リーナが膝を抱えたまま、火越しに軽く言う。焚き火の向こうで、シャムロックが寝転がっている。目は閉じたまま、声だけが低く滑った。
「貧乏臭いの間違いだろ」
「それなら次のターゲットはお前だよ」
「俺は貧乏じゃなくて清貧なんで」
「嘘つけ!」
リーナが吹き出し、火の粉がふわりと舞った。ミレイアは口元を押さえ、笑いを堪えきれていない。ナッシュは額に手を当てる。
ドーランだけが黙々と薪をくべ続けていた。乾いた木が崩れ、火が一段強くなる。
グレンは炎を見つめた。揺れる橙色の中に、昼間の光景を重ねる。
風で散らした。氷で固めた。だが霧は消えなかった。
魔術を使うたび、周囲の魔力がわずかに震えていた。散った魔力が戻る速さ。凍った縁から、にじみ出るように広がる新しい霧。あれは拒絶ではない。舐めるように、測っていた。
「魔力だと思う」
言葉が自然に落ちた。
「魔力?」
「あいつが狙うのは、魔力の多い対象だ。これまでミレイアが狙われていたのは、四人の中で魔力を持っているのが彼女だけだったからだろう。だが今日、俺が入った。俺の方が魔力量が多い。だから標的が移った」
ミレイアがゆっくり頷く。火の光が瞳に映る。
「……そう、かもしれません。それなら辻褄が合います」
ナッシュが地図を広げる。紙の擦れる音が静かに響いた。
「肉を食わない理由も、それで説明がつくかもしれない。あいつが食っているのは——」
「魔力だ」
グレンは言い切った。
「遺体に獣害がないのは、肉に用がないからだ」
薪が弾け、火の粉が夜に散る。短い沈黙が落ちた。
「仮説だ。確証はない」
「でも、筋は通る」
ナッシュは視線を地図に落としたまま頷く。
「もしそうなら、魔力を持たない人間は標的にならない可能性がある。これまでの被害者を確認する必要がある。ルドガーに上げよう」
「ああ」
「明日も出る。今日でわかったことは多い。――グレン、助かった」
グレンは肩をすくめる。ローブの内側にまだ熱がこもっている。
「掠られただけだ」
「それでも凌いだ」
「凌げたわけじゃない」
視線がわずかに動き、そして止まる。
焚き火の向こう。シャムロックは腕を枕にして寝転がっている。呼吸の間隔すら読めない。
グレンは再び炎へ視線を戻した。
「それにしても」
言葉を探すように、視線がわずかに揺れる。杖の先で地面を叩くと、乾いた音が夜に響いた。
「霧は沼を中心に発生するんだろう。それなら――沼ごと干上がらせれば、発生源を潰せるんじゃないか」
リーナの動きが止まる。膝を抱えたまま固まった。
「ぬ、沼を干上がらせる?」
「水分を蒸発させるだけだ。半日もあれば」
「いやいやいやいや」
両手を振る音がぱたぱたと空気を切る。
「それか、辺り一帯を焼き払うか。相手が何者だろうと関係ない」
ナッシュの手が地図の上で止まる。火の光に照らされた紙の上で、指先だけが動かない。
「……この辺り一帯を」
「ああ」
「焼き払う」
「一撃でとはいかないが、何発かに分ければ」
「違う違う、そういう問題じゃない」
ナッシュが額を押さえ、深く息を吐いた。ミレイアは口元に手を当て、怯えたように目を揺らしている。
ドーランは動かない。ただ、薪を持つ手だけが止まっていた。
火の向こうから声が落ちてきた。
「悪い。そいつ馬鹿なんだ」
目を閉じたままの、乾いた声音だった。
「馬鹿じゃない。合理的な話をしている」
「沼を消すだの森を焼くだのを合理的って言われてもな」
「半日もあればできる」
「できるできないじゃなくて、やるなって話なんだよ」
リーナが堪えきれず吹き出す。笑い声に混じって、薪が崩れる音がした。
ナッシュは一度、空を仰いでから言う。
「……グレン。ここはセルディアの経済圏に含まれている。薬草も木材も魔獣素材も、重要な資源なんだ」
「知ってる」
「失えば街が損害を受ける」
「…………」
グレンは口を閉じる。焚き火の熱がやけに強く感じられた。
数拍置いて、小さく鼻を鳴らす。
「普通に放火犯だよ。やれやれ、短い付き合いだったな」
「ぐぬぬ……」




