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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
交易都市セルディア

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霧中の初撃

 大森林――調査・一日目。


 朝靄がまだ薄く残る西街道を、六人と一頭の荷馬が進んでいた。湿り気を帯びた土の匂いと、草の青い匂いが足元から立ち上ってくる。朝の光はやわらかく、木々の影が長く道に落ちていた。


 ナッシュが先頭を歩く。視線は常に前方へ向けられ、足取りに迷いがない。シャムロックが殿に回り、気配を後ろへ広げている。グレンはその斜め前を歩いていた。ドーランが荷馬の手綱を引き、リーナとミレイアが左右に散っている。誰が指示したわけでもない。歩き始めて数分で、自然に定まった形だった。互いの間合いが、言葉なしに揃っていく。


 街道は平坦で、左手には大森林の縁が延々と続いている。木々の列は濃く、奥はすでに影に沈んでいた。鳥の声が高く低く重なり、遠くで車輪の軋む音がかすかに聞こえる。街道を行き交う人影はまばらで、こちらを気にする者はいない。セルディアの西門を出てからここまで、異変の気配はなかった。


 道中、グレンはドーランの視線に気づいた。また見ている。ギルドですれ違ったときから、支部長室でも、訓練場でも、昨日の打ち合わせでも。この大男は、隙があればシャムロックへ目を向けている。


 シャムロックは、それに気づいているのかいないのか、いつも通りの顔で殿を歩いている。足音も呼吸も変わらない。


「なあ」


 グレンは少し声を落としてドーランに声をかけた。


「いつもシャムロックのこと見てるだろ。何なんだ」


 ドーランの足が一瞬だけ遅れた。砂利を踏む音がわずかにずれる。それから、低い声で短く答えた。


「強い」


 それだけだった。判断の過程は一切ない。


「え、あ、うん」


 数秒待つが、次の言葉は出てこない。


「強……え、それだけ?」


 グレンが返すと、ドーランは前を向き直った。以降、シャムロックを盗み見ることはなくなった。見る必要がなくなったのだ。確認は終わっている。


 ◆ ◆ ◆


 昼前、野営地に到着した。木立の合間に開けた場所で、踏み固められた地面が広がっている。黒く焦げた焚き火の跡が残り、木には目印の楔が打ち込まれていた。風に揺れる枝が、その上で乾いた音を立てる。ナッシュたちが拠点として使っている痕跡だった。


 ここをベースに、沼地の周囲を巡回しているのだろう。


 浅層域へ踏み入りながら、再度確認する。木々の間に入ると、光が一段落ち、空気がひんやりと変わる。地面はやや湿っており、靴底に柔らかく沈む感触があった。


「霧が出る頻度は」

「まちまちだ。朝方に出ることもあれば、昼過ぎに出ることもある。パターンは読めていない」

「今出ていないのは」

「普通だ。出ないときは丸一日出ない」


 グレンは頷き、意識を周囲へ広げた。皮膚の外側にもう一枚、感覚を張るように。だが、特別な何かは引っかからない。静かな森の気配だけが、均一に広がっている。

 探知を止め、先へ進むと、じわりと、霧が出てきた。


 木と木の間を、白い糸が這うように動く。足元から膝の高さまで、ゆっくりと立ち昇る。さっきまでなかったはずの湿り気が、空気に混じる。肌に触れる温度が、わずかに下がる。

 薄く、魔力が滲んでいた。

 グレンは杖を構え、短く詠唱した。

 風が生まれる。足元から上へ吹き上がり、空気を一気に攪拌する。草の葉が裏返り、木の枝がざわめいた。霧は押し流され、視界が開ける。

 だが、風が止まると戻ってきた。

 窪みに水が流れ込むように、同じ場所へ再び白が満ちていく。ゆっくりと、しかし確実に。


「散らしたのに戻る。発生源が、まだここにいる」


 グレンは杖を持ち替え、次の術を組む。周囲の温度が急激に落ちる。吐く息が白く濃くなり、空気中の水分が一斉に結晶化する。細かな氷の粒が音もなく降り、葉の上でかすかに弾けた。


「うわ、さむっ」


 リーナが腕を抱え、肩をすくめる。

 白い静けさが一瞬訪れる。音が吸われたように、森が沈黙する。

 だが、すぐに新しい霧が滲み出る。凍らせた範囲の外側から、じわりと侵食するように。押し出された水が別の場所から湧くように、魔力が形を変えて戻ってくる。

 誰かに出方を試されているような感覚が、肌にまとわりついた。


「駄目だな」

「散らしても凍らせても戻ってくる」


 ナッシュが腕を組む。革がきしむ音が小さく鳴った。


「問題は霧の中の何かだ」

「そうだ」


 霧が、徐々に濃くなる。尋常な量ではない。視界を遮る白の壁へ変わっていく。すぐそこにいる相手が見えない。ナッシュの言葉が、そのまま現実になる。


 同時に、空気の質が変わった。


 薄く広がっていた魔力が、急速に密度を増す。水面に垂らした墨が渦を巻くように、周囲の魔力が脈動を始める。圧がかかる。皮膚の上に、見えない重さが乗る。

 ミレイアの言っていた「揺らぎ」を、グレンはその瞬間に理解した。


「来ます!」


 ミレイアの声が、霧の向こうから飛ぶ。

 複数の気配が一斉に沈む。衣擦れ、膝をつく音、呼吸を殺す微かな気配。ナッシュたちが身を低くしたのが、音だけで伝わる。


 グレンは、立ったままだった。


 頭では理解している。身を低くしろ。攻撃は死角から来る。しかし、初めての状況だった。身体が順序を誤る。状況を把握しようと、周囲へ意識を広げたその一瞬。


 反射が先に動いた。


 思考より速く左手が上がり、魔力障壁が展開される。自分の周囲を覆う薄い膜。即興の防壁。

 だが砕けた。

 衝撃が走る。膜が弾け、空気が裂ける感覚だけが残る。

 次の瞬間、横から腕が伸びた。

 襟首を掴まれ、強い力で引き倒される。視界が傾き、背中に固い感触が当たる。シャムロックの胸甲だった。冷えた鉄の感触と、その内側にある体温が、同時に伝わる。

 腕が回り、頭を押さえつけられる。地面すれすれまで引き下げられる。湿った土の匂いが鼻に近い。


 だが、それ以上は来なかった。


 魔力が引いていく。

 膨らんでいた圧が、一気に萎んだ。渦を巻いていた密度がほどけ、霧が足元から消えていく。潮が引くように白が剥がれていく。木々の輪郭が戻り、西日の橙が差し込んでくる。


 霧が消えた。


 視界が開ける。ナッシュは片膝をつき、剣を構えたまま周囲を見ている。ドーランが盾を前に構えたまま、ゆっくりと立ち上がる。ミレイアがその傍で身を縮めている。リーナは木の根元に背を預け、しゃがんだまま息を吐いた。


 全員が、ようやく息を吐く。


「――凌いだ」


 ナッシュの声に、はっきりと安堵が混じる。


 グレンは動けなかった。別の理由で。

 シャムロックの腕が、まだ背中にある。胸甲の冷たさと、その下の体温が近い。革と汗と鉄の匂いが混ざる。耳元で聞こえる呼吸が、自分のものではないと気づくまでに、数拍かかった。

 顔を上げようとすると、頭がシャムロックの顎に当たる。その距離だった。


「……」


 言葉が出ない。何を言うべきか、浮かばない。

 シャムロックが、長い溜息をついた。いつもと同じ、面倒そうな吐息だった。

 腕が離れる。というより、放り出される。


「重い」

「重くない」

「怪我は」

「ない」

「そうか」


 短いやり取りのあと、森に残っていた緊張が、少しずつほどけていった。

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