足を止める理由
五日目の朝だった。
冒険者ギルドのロビーに足を踏み入れた瞬間、声の密度が違った。
声は多い。だが広がっていない。壁際に寄った集団がいくつもできていて、ひそひそとした音が低いところで絡み合っている。
乾いた革と、朝の冷気に混じる汗の匂い。そこに、どこか焦げたような緊張が乗っている。
若干の違和感を覚えながらも、グレンは依頼掲示板の前に移動した。
探しているのは東へ向かう護衛依頼だ。西は霧で詰まっている。セルディアから離れるなら東だと考えた。
羊皮紙の束が並ぶ板には、日付も方面もばらばらの依頼が貼られている。
シャムロックも、何も言わずに依頼板を眺めている。昨夜の提案を蒸し返す気はないらしい。
グレンが自分で決めた。だからグレンが自分で動くのを待っている。
そういう距離感だった。
宿は今朝引き払った。
依頼があってもなくても、この街を出るつもりだった。
「グレン?」
呼ばれて振り向くと、ナッシュがいた。後ろにドーラン。
昨晩戻ってきたばかりという顔をしている。金属の擦れる気配、革の乾いた匂い、屋外の土と汗の名残が、わずかに二人の周囲にまとわりついていた。
ナッシュの視線が、グレンの肩口から足元までゆっくり滑る。
「見違えたよ」
素直な声だった。
質素なチュニックしか知らなかったのだ。当然だろう。
視線はローブの襟、袖の仕立て、ブーツの革の新しさへと順に移っていく。
ひとつひとつ確認するような目だった。
「――旅支度か」
言葉の途中で、声から明るさが薄れた。
新調した装備。依頼板の前に立っていること。
東向きの護衛依頼を探していること。
その全部が、この距離からでも伝わってしまったのだろう。
グレンは答えなかった。
答えないことが、そのまま答えになった。
ナッシュは少し黙ってから、軽く頷いた。
「そうか」
それだけだった。引き留めない。責めない。ただ肩がわずかに下がる。その小さな動きが、妙に目に残る。
「あとの二人は?」
シャムロックが聞く。
「朝市。情報と補充」
ナッシュはそう答えてから、奥の廊下へ目をやった。
「報告がある。済ませてくるよ」
「おう」
シャムロックが顎で送る。ナッシュとドーランはそのまま奥へ消えた。扉の閉まる音が固く響く。
依頼板に視線を戻した。東向きの護衛依頼が三枚。その隣に、魔術師指定の依頼が四枚ある。日付は古い。受ける人間がいないのだろう。
さらにその隣には、霧の被害区域を示す地図が貼ってあり、赤い印が増えていた。
耳を澄ませば、奥の話し声がかすかに漏れてくる。内容までは聞こえない。ただ、声の調子だけで十分だった。
霧。被害。解決の糸口がないこと。
指先で紙の端をなぞる。ざらつきが指に残る。酒場で聞いた話が、遅れて浮かぶ。
肉は食われていない。
穴だけがある。
あのとき自分は断言した。魔術師の犯行ではない、と。
なのに、その先へ踏み込もうとしていない。
依頼板の紙を一枚ずつ見る。文字を追う目が滑る。何を探しているのか、自分でもわからなかった。
結局のところ、何一つ納得できていないのだ。
そのとき、支部長室に続く扉が開いた。
商会の上役らしい服装の男が三人、足音を荒くして出てくる。
錦糸の刺繍が入った上着に、額の汗が光っていた。
怒りと焦りを隠しきれない歩き方だった。
「いつまで待てばいいんです!」
声がロビーに跳ね返る。最後に出てきたルドガーが、静かに応じる。
「引き続き、対応を続けます」
「続けてこの結果じゃないですか。評議会としても……」
「ご懸念はごもっともです。改めてご連絡します」
商会の男たちは、苛立ちを隠しもせず玄関へ向かった。
すれ違いざまに、グレンのローブ姿を一瞥する。
何も言わなかった。
だが、その目の温度が一瞬だけ下がった。
ルドガーはそのまま廊下へ戻る。背中がわずかに重い。
グレンは依頼板に向き直った。
東向きの護衛依頼。報酬は銀貨十五枚。二人で分ければ足りないが、次の街で繋げばどうにかなる。
指先が紙の端に触れかけた。
そのとき、玄関が開いた。
朝の光が差し込む。外のざわめきが一瞬だけ流れ込む。
「――ひどいよね」
リーナの声。乾いた薬草の匂いと、果物の甘い匂いが風に乗る。
「窓、割られてさ。中もぐちゃぐちゃだって」
ミレイアが小さく息を飲む気配。
「盗みじゃないの。荒らしただけで、ほとんど残ってるって」
指が止まる。
「嫌がらせ……だよね」
「魔術用品店だったんでしょ」
言葉が、ゆっくりと沈んでくる。指が、紙から離れる。
「看板も小さくて、知らないと気づかない店だって」
リーナの声は、ただの噂話の調子だった。だからこそ、刺さる。
「犯人、近所の人らしいよ」
そこでようやく、リーナの視線がグレンに止まった。
一瞬、言葉が途切れる。
「……知ってるの?」
「杖を買った」
声が硬い。自分でもわかった。
喉の奥が詰まる。
「店主は」
「怪我はないって。でも、店は閉めるみたい」
胸の奥で、何かがずれる。
棚に並んでいた杖。何も聞かれなかったこと。「選べ」とだけ言われたこと。あの声。
それが、途切れる。
仕立屋の女の声も浮かぶ。襟を直す手つき。「気をつけなね」と言ったときの、あの目。
視線を上げる。
ロビーの中にいる魔術師は、自分だけだ。気づけばそうなっていた。
ここから出る。合理的だ。ここに残る理由はない。わかっている。
それでも、足が動かない。
依頼票は目の前にある。伸ばせば届く距離にある。なのに、やけに遠い。
奥の扉が開いた。
ナッシュとドーランが戻る。ルドガーが後ろに続く。顔色でわかる。進んでいない。
五人が卓につく。低い声で何か話している。断片しか聞こえない。だが、表情だけで十分だった。
手詰まり。
視線を外すことはできた。耳を塞ぐこともできた。それでも、立っている場所は変わらない。
「シャムロック」
「何」
「……やっぱり残る」
声にした瞬間、胸の奥の何かが止まる。
シャムロックはすぐには答えない。
短い間。
「……そうか」
それだけだった。グレンは踵を返す。依頼板から離れ、ルドガーの方へ歩く。
「霧の調査、まだ人手が要るか」
ルドガーが顔を上げた。
「ああ」
「行く」
言葉は短い。だが、それで十分だった。
ナッシュの手が止まる。リーナが目を見開く。ミレイアが息を吸う音。ドーランの視線が横に流れる。
ルドガーが深くうなずく。
「助かる」
その声を聞いたとき、ようやく足の裏に重さが戻る。軽くはない。
それでも、さっきまでの宙に浮いた感覚は消えていた。




