名のない感情
衛兵詰所で事情を話し、外に出た。
外気が肌に触れる。こもっていた熱が背中から抜ける。外の空気は乾いていて、頬に触れたときだけやけに冷たく感じた。肺に入る空気が少し軽い。それでも胸の奥に残った圧迫感は抜けなかった。
拳を握ったまま歩いていることに気づく。指を開くと、掌に白い爪の跡が残っていた。じん、と遅れて痛みが滲む。
「さっき」
自分の声が、思ったより低く響いた。喉の奥に、まだ熱が残っている。
「何」
シャムロックは前を向いたまま歩いている。靴底が石畳を叩く音が、一定の間隔で返る。その調子が崩れないことが、妙に現実味を欠いていた。さっきまで、片手で人を吊り上げていたのに。
「何をしようとしてたんだ」
答えは返らなかった。沈黙が続く。靴底が石を踏む音だけが続く。
答えないこと自体が、答えのように思えた。
「……なんか、違ったぞ。俺の知ってる喧嘩と」
言いながら、自分でも曖昧だと思った。言葉が足りていない。
シャムロックの歩調は変わらない。
「そうか」
「そうか、じゃなくて」
「別に何もしてない」
起伏のない声だった。言い逃れの気配も、誤魔化す様子もない。ただ、そのまま置かれる。
言葉を返そうとして、詰まる。
掴めない。何が違ったのかを、まだ言語化できない。
喉の奥に引っかかっているのは、言葉にならない違和感だった。怒鳴り声がなかった。音がなかった。変化がなかった。あのとき、シャムロックの顔には何も乗っていなかった。
それでも、あのままなら男が死ぬと感じた。
「……わかった」
口から出たのは、それだけだった。
納得したわけではない。ただ、それ以上押し込む言葉が見つからない。
だが、別の感情はまだ残っている。 あの男に対する怒りだ。 歩くほどに鮮明になっていく。
「やっぱり殴ればよかった」
自分でも驚くほど、言葉がはっきりと出た。
「お前が捕まるって言っただろ」
「わかってるけど」
胸の奥で回っていたものが、言葉の形を取り始めている。
「どうせあいつすぐ釈放されるんだろ」
言葉が少しずつ速くなる。
「殺されかけた俺は? 死ななくて良かったね? でも俺が殴ったら逮捕? 魔術師だから?」
「……おかしな話だな」
否定でも肯定でもない。ただ、グレンの言葉をそのまま受け取った声だった。
それで、少しだけ肩の力が抜ける。
理解されたわけではない。それでも、跳ね返されなかっただけで、行き場のなかったものに隙間ができる。
沈黙が戻る。
怒りはまだある。だが、さっきより輪郭が鈍い。掴もうとすると、指の間から抜ける。
代わりに、底の方に重いものが沈んでいる。
里にいた頃は、もっと単純だった。石を投げられる前に、目があった。避けるか、やり返すか、選ぶ余地があった。
侯爵の屋敷でも同じだ。向けられているものが分かっていた。怒りか、嘲りか、どちらにしても形があった。
今は違う。あの男の、最後に見た顔。
敵意が剥がれて、何が起きているのか分からないまま歪んでいた表情。
怖がっていただけの人間が、馬車の前に突き飛ばした。
握りかけた拳が、また開く。殴れない相手への怒りは、行き場を失って沈む。沈んで、濁る。
「なあ」
シャムロックが口を開く。
声の調子がわずかに変わった。いつもより、少しだけ柔らかい。
「俺の冒険者登録もできたし、お前の装備も整ったし」
先が読めた。グレンは何も言わず、続きを待った。
「セルディアにこだわる理由もないだろ。もうちょっと動きやすいところに移るのはどうだ」
歩みは変わらない。
逃げるのか、と思う。
逃げることの何が悪い、とも思う。どうせ故郷からも逃げ出した身だ。
殴れない。怒鳴れない。相手が魔術師というだけで、いともたやすく一線を越えてくる。ここに残って、何ができる。
さっきまで胸の奥で回っていた熱が、急に冷える。冷えたあとに残るのは、軽さではなかった。空いた場所に、別の重さが落ちる。
ここにいる理由がない。
その事実だけが、はっきりと残る。
「俺とお前なら、ここじゃなくてもできるだろ」
言葉を探すが、見つからない。
「そう、だな」
出たのは、それだけだった。納得ではない。ただ、他に何も出てこなかった。
宿の主人は、黒いローブを見た瞬間、口元を歪めた。苦いものを噛んだような顔。すぐに取り繕ったが、遅かった。
さっきまでなら、突っかかっていたかもしれない。けれど、今は何も動かない。残っているのは、ただの疲労だった。
鍵がやけに重い。
階段を上がる音がやけに大きく響いた。
◆ ◆ ◆
グレンの呼吸が落ち着き、規則的になる。それを聞きながら、シャムロックは窓枠に背を預けた。
夜の空気が、隙間から細く入り込む。頬に触れる風は冷えているが、室内の熱はまだ抜けきっていない。
街の音は遠い。人の声も車輪の音も、重なって薄く伸びている。
街を出るという判断は、間違ってはいない。状況に対して、無理がない。辻褄も合っている。
胸倉を掴んだ瞬間。何もなかった。怒りでもない。正義感でもない。
ただ、あの男が邪魔だった。不確かな情報に振り回され、自分の手から命を奪おうとした男が。
グレンが間に入らなければ、どうなっていたか。考えかけて止めた。意味がない。
こんな街がどうなろうと、知ったことではない。




