無形の暴力
四日目の朝。
仕立屋の扉を引くと、乾いた鈴の音が耳に触れた。軽く澄んだその響きが、静かな店内に細く残る。
店の奥には、布と糸の匂いが沈んでいた。乾いた麻の匂いに、染料のわずかな甘さが混じっている。三日前と変わらない空気だった。
女はカウンターの上に包みを二つ並べていた。グレンの顔を見て、眼鏡の奥でわずかに目を細める。三日前と同じ服装のまま来たことを確認して、それ以上は何も言わなかった。
「できてるよ。全部揃ってる」
包みが開かれる。乾いた音を立てて布同士が擦れる。
ローブ、シャツ、ベスト、ズボン。黒を基調にした一式。ローブは窓からの光を受け、鈍く滑るような光沢を返していた。指をかければ流れそうな、薄くしなやかな質感だった。高い襟が首元を囲い、裾には深い切り込みが入っている。シャムロックが示した形。
「奥で着替えておいで。鏡もあるから」
仕切りの向こうに通される。
シャツに袖を通すと、布がひやりと肌に触れた。すぐに体温を吸って馴染み、動きに合わせて滑る。チュニックとは違う、均一に織られた布の感触。
ベストを重ねると、胸元が締まり、身体の線が整えられていく。
ズボンに脚を通し、裾をブーツに収める。下半身に重みが加わる。
一枚ごとに、輪郭が定まっていく。曖昧だった境界が、外側から固定される感覚。
最後にローブを羽織る。
肩に重みが落ちる。軽い布のはずなのに、確かな存在感があった。背中を撫で、腕に沿い、重力に従って流れ落ちる。その流れが、身体の形をなぞる。
生成りのチュニックで過ごした三週間が、肩口から剥がれていくように感じられた。
鏡を見る。
そこにいたのは、久しく見ていなかった自分だった。
魔術師が、そこにいる。
仕切りを出ると、女が腕を組んで待っていた。視線が上から下へと滑る。布の落ち方、肩の収まり、裾の長さを確かめる職人の目。
「いいね。サイズも合ってる」
指先が襟に触れ、内側に折れていた布を押し上げる。擦れる音がわずかに耳に残る。
「ここ、立てて着るんだよ。そういうデザインなんだから」
「……すみません」
「あんたが選んだんだろう」
訂正はしなかった。
カウンターに肘をついたシャムロックが、こちらを見ている。琥珀色の目が、黒い布の流れをなぞる。
「……それっぽくなったな」
「それっぽくじゃなくて、これが本来の俺だ」
「はいはい」
鼻を鳴らす。もう一度だけ鏡を見る。口元がわずかに緩んでいた。すぐに引き締める。戻せたと思った。確認はしなかった。
店を出ようとしたとき、女が声を落とす。
「……気をつけなね」
それは商売の言葉ではなかった。
「ああ」
扉の鈴が、もう一度鳴る。
◆ ◆ ◆
大通りに出た。石畳が昼の光を反射し、白く照り返している。視界の奥で熱が揺らぐ。
ローブが風を受ける。裾が持ち上がり、すぐに落ちる。布が脚に触れ、また離れる。軽い。動きに遅れない。
杖は宿に置いてきた。それでも足りないとは思わなかった。
この姿で歩ける。この姿が、自分だ。歩調を整え直した、そのときだった。
背中に強い衝撃を受け、身体が前へ押し出される。足裏の感覚が一瞬抜け、視界が傾いた。
石畳が迫る。粗い継ぎ目が目に入る。馬の蹄が石を打つ硬い音が耳を叩く。乾いた土と獣の匂いが鼻に入り込む。
避けられないと理解した瞬間、首元が急に締め上げられた。襟が後ろから引き絞られ、布が喉に食い込み、息が詰まる。
次の瞬間には身体が逆方向に引き戻され、前に流れた重心が強引に断ち切られた。背中に硬い衝撃が当たり、人の体温が伝わる。胸板にぶつかった形で動きが止まる。
馬車がすぐ脇を通り過ぎていく。風圧とともに、鉄輪が石を打つ音が遅れて耳に残った。
数秒ののち、足の裏に地面の感触が戻る。膝がわずかに震えている。呼吸が浅い。額に冷たい汗が浮かぶ。
振り返った先にいたのは、中年の男だった。擦り切れた服、荒れた手。どこにでもいる顔。記憶に残らない種類の人間。
ただ、目だけが違う。怯えと敵意が、混ざっている。
その胸倉を、シャムロックが掴んでいた。
顔は変わらない。いつもの、眠たげな表情のままだ。怒りも、苛立ちも浮かんでいない。視線もただ落ちているだけで、相手を睨んですらいない。
なのに、指だけが深く食い込んでいる。布を掴むというより、そこに固定しているような力の入れ方だった。
よく見れば、男の体が浮きかけている。抵抗して跳ねたわけではない。静かに持ち上げられている。
違和感が先に来る。怒鳴り声がない。罵声もない。軽すぎる。
男の顔が変わる。
さっきまであった敵意が、剥がれる。代わりに浮かぶのは、理解の遅れた恐怖だ。自分が何をされているのか、追いついていない顔。喉が引きつり、音にならない息が漏れる。
足が、地面から完全に離れた。
周囲の足が止まる。
「……おい」
誰かの低い声。
「あれ、やばいんじゃ――」
言い切られないまま、言葉が途切れる。視線が集まる。ざわめきが広がりかけて、途中で鈍る。
怒鳴り声が上がらない。止めに入る者もいない。何が起きているのかを、誰も正確に掴めていない。
ただ一つだけ、共有されている。
――あれはまずい。
形にならない理解だけが、空気に滲んでいく。
シャムロックの腕は動かない。負荷を感じている様子すらない。力任せではない。ただ、一定の位置まで持ち上げて、そこで止めている。
締めれば終わる位置だ。そこで止めている。
殺すのか。
――いや、違う。たぶん、違う。こんな、陽の高い大通りで、衆人環視の元で。
だが「絶対に違う」と言い切れる根拠がない。
背筋が冷えた。その直後に、別の感情が噴き上がった。
違和感ではない。拒絶でもない。苛立ちに近い、もっと荒い何かだった。
自分から命を奪おうとした男と、怒りを奪おうとしている男。
――それは、俺のだろ。
その衝動が、横から取り上げられている。何の感情もないまま、煩わしい虫を払うように。
腹の底で、熱が跳ねる。身体が勝手に動いていた。
シャムロックの腕に手をかけ、一歩踏み込む。二人の間に身体を差し入れる。
「俺が殴る」
シャムロックの指が、ほんの少しだけ緩んだ。だが、完全には離れない。まだ作業が残っているかのように。
「だめだ」
平坦な声が落ちた。
「今のお前が人を殴ったら、お前が捕まる」
思考が止まる。拳が空中で止まり、遅れて意味が繋がる。
――魔術師。
その一語が、遅れて浮かぶ。
拳を下ろすのと同時に、シャムロックの手からも力が抜けた。男の体が落ち、膝を折りかけてよろめく。もう、用はないとでも言うように。
「衛兵を呼んでくれ」
周囲へ向けた声も、同じ温度だった。ついさっきまで人を持ち上げていたのと、まったく同じ調子で。




