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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
交易都市セルディア

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踏み出せない一歩

 霧の問題は、待ってはくれない。


 ローブの仕立てを待つ三日間、グレンとシャムロックは消耗品の補充と情報収集に費やした。街の中を歩くだけで、状況は目に入ってくる。


 冒険者ギルドの入口脇に掲げられた大森林周辺の地図。羊皮紙の上に打たれた赤い印が、前に見たときよりも増えている。西街道沿いに三つ、森の外縁に二つ。印はどれも小さいが、その一つ一つに人の体温があったはずだ。血の色を写したような赤が、紙の上で乾いている。


 薬草屋の店内は、湿った土と乾いた葉の匂いが混じっていた。吊るされた束からは青い香りが落ち、棚の瓶からは粉の苦みが微かに立つ。


 店主はよく喋る女だった。手は止まらない。瓶を持ち上げ、ラベルを確かめ、元の位置に戻す。その間も声だけが流れ続ける。


「霧のせいで西からの荷が減ってねぇ。大森林の薬草は浅層でも採れるんだけど、近づく冒険者が減ってんのよ」


 言葉は独り言のようでいて、完全に独り言ではない。誰かに聞かれていることを前提にした声量だった。


「このまま行くと相場が上がるかもしれないよ」

「そうか」


 グレンは短く返した。会話というより、音のやり取りに近い。


「嫌な霧だよ。街の空気がどんどん悪くなる」


 女は瓶を棚に戻した。ガラスが木に触れて、軽い音が鳴る。


 ◆ ◆ ◆


 昼過ぎ、大通りの広場に出ると、陽射しが石畳を白く照らしていた。反射した光が目に刺さる。その中に、人だかりができている。


 行商人風の男が、商会の人間に詰め寄っていた。声が張られている。喧嘩の声ではない。周囲に聞かせるために、意図的に音量が上げられている。


「西の街道が使えなきゃ、うちは月の半分は動けないんだよ!」


 言葉が空気を震わせる。近くにいる人間の肩がわずかに動く。視線が集まり、しかし踏み込まない。誰もが距離を測っている。


 街道が止まる。荷が滞る。金が回らなくなる。グレンの頭の中で、簡単な図式が組み上がる。セルディアという街の血流が、どこで詰まり始めているかが見える。


 人だかりを避けようと足を向けたとき、別の声が耳に入った。


「おい、あんた。魔術師だろう」


 足が止まる。反射的に。

 だが、その声は自分に向けられていなかった。

 十歩ほど先、ローブ姿の男が呼び止められている。布はくたびれているが、杖を持っている。魔術師の姿だった。

 露店の主人が腕を組み、通路を塞ぐように立っている。


「この辺で商売されると困るんだよ。客が怖がる」


 声は低いが、はっきり届く。拒絶の言葉だった。

 ローブの男は何も言わない。視線を落とし、わずかに顎を引く。その動きだけで、場の空気が決まる。

 周囲の人間は見ている。足を止めた者もいる。だが誰も声を挟まない。誰かが咳をした。布が擦れる音がした。小さな生活音だけが、やけに大きく聞こえる。


 グレンはその場に立っていた。生成りのチュニック。杖は宿に置いてある。ローブはまだ手元にない。誰も自分を魔術師とは見ない。

 ローブの男が一歩下がる。露店の主人はそれ以上踏み込まない。ただ視線で追う。男は向きを変え、そのまま広場を横切っていく。足取りは速くも遅くもないが、背中がわずかに縮んでいた。


 視界の端で、その姿が小さくなる。

 足が動きかける。


 追うか。声をかけるか。同じ立場だと名乗るか。この格好で。何も証明できない状態で。

 靴底が石畳にわずかに擦れる。踏み出す直前の重心の移動が、膝の内側に引っかかる。

 そのまま、止まってしまった。

 一歩が出ない。出しかけた力が、行き場を失って足の内側に沈む。胸の奥に鈍い重さが落ちる。


 男は路地に消えた。

 残ったのは、踏み出さなかった自分だけだった。動けたのに動かなかった事実が、腹の底に沈む。

 シャムロックが隣に立っている気配だけがある。何も言わない。その沈黙が、肯定でも否定でもないまま横にあった。


 ◆ ◆ ◆


 翌日、魔術用品店へ向かう路地の角を曲がったとき、視線が引っかかった。

 壁に立てかけられた木の板。手書きの文字。


“魔術師は出ていけ!”


 インクが滲み、線が揺れている。書いた手の震えが、そのまま形に残っていた。文字の大きさが揃っていない。最初の一文字が大きく、後ろにいくほど小さくなる。書きながら、勢いが削がれていった痕跡だった。

 公的なものではない。誰かが自分で書き、自分でここに置いたものだ。

 怒りは湧かなかった。線の歪みが、感情を語っていた。これは攻撃ではなく、防御だ。正体の見えないものに対して、手の届く範囲に壁を立てる行為だった。

 板の前を通り過ぎる。視線を外さず、そのまま奥へと進んだ。


 扉を押すと、前と同じ匂いが流れ出た。木と油と乾いた薬草。だが、その層がわずかに薄くなっているように感じる。空気が動いていない。


 棚に目をやる。右端にあった杖が減っている。売れたわけではない。配置が詰められ、隙間が消されている。数が減ったことを隠す整え方だった。

 店主は前と同じように現れ、余計なことは聞かない。必要なやり取りだけが交わされる。


「柳は乾燥にも湿気にも弱い。長く使うなら、油を塗れ」

「わかった」


 短い会話の中で、杖の手入れの感触が指先に浮かぶ。油の粘り、布の滑り。

 支払いを済ませる。硬貨が触れ合う音が小さく鳴った。

 扉に手をかけ、振り返る。店主はすでに棚に向き直っていた。客の有無に関係なく続く動きだった。誰も来ない時間にも同じ手順を繰り返している背中が、狭い店の奥に沈んでいる。

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