契約成立
「慈善事業じゃないのはこっちも同じだ!」
怒声が乾いた空気を震わせた。 それまで沈黙していたグレンが、弾けるように声を上げる。握り締めた拳の骨が白く浮き、わずかに震えていた。
「俺たちだって、生きるために働いてる!」
熱を帯びた声に対し、場の空気は一瞬だけ凍りつく。
「おいおい、落ち着けよ、魔術師さん」
気の抜けた声とともに、シャムロックが一歩前に出た。靴底が砂を噛む鈍い音が、妙に大きく響く。
彼はグレンの前に立ち、陽光を遮る壁のように影を落とした。
「いちいち噛みつくな。話が進まん」
「けど!」
「けども何もねぇ」
シャムロックの手が無造作にグレンの頭に触れる。軽いはずのその動作に、子ども扱いされた屈辱が混じる。グレンは反射的にその手を払いのけた。
「……ッチ」
舌打ちが、かすかに唇の内側で弾ける。奥歯を噛みしめ、喉元までせり上がった言葉を押し込んだ。ここで感情に任せれば、交渉は壊れる。その程度の理性は、まだ彼の中に残っていた。
「で、ゴランさんよ」
シャムロックは何事もなかったように向き直る。その目は先ほどまでの気怠さを捨て、獲物を測るように細められていた。
「こいつの言う通りだ。俺たちも慈善じゃ動かねぇ。命を張る以上、最低限の保証は必要だ」
「保証って言ったってなぁ……」
ゴランの額に脂汗が滲む。指先が無意識に衣の裾を弄び、落ち着きのなさを露わにしていた。
「さっきも言ったろ? うちみたいな零細が、飯も宿も持ってたらすぐに干上がる。もう少し……どうにかならんか?」
「ならねぇな」
即答だった。言葉は短く、しかし重く落ちる。逃げ場を与えない断定。
「二人で銀貨二十枚。一週間。その間の衣食住はそっち持ち。それが飲めないなら終わりだ」
風が吹き抜け、荷馬車の幌がぱたぱたと鳴った。誰もすぐには口を開かなかった。
その沈黙を破ったのは、女の足音だった。
「あなた……」
柔らかいが、芯の通った声。エレナが一歩前に出る。栗色の髪が光を受けて淡く揺れた。
「ここは彼らの条件を飲むべきでは」
「エレナ!?」
ゴランの声が裏返る。
「何を言うんだ、そんなことをしたら――」
「わかっています」
静かに遮る。その声音には揺らぎがない。
「ですが、あなたは常々仰っているでしょう。商売は信用第一だと」
言葉は穏やかだが、逃げ道を塞ぐように積み重ねられる。
「こちらが誠意を見せなければ、彼らも応えてはくれません」
ゴランは口を閉ざした。唇がわずかに震える。
「それに」
エレナは一拍置いた。
「護衛が途中で倒れたら? あるいは逃げたら? その時の損失は、今の出費より軽いと言えますか?」
乾いた風が頬を撫でる。その問いは、逃げ場のない現実だった。
「……」
ゴランは視線を落とす。地面の砂を靴先で押し、無意味に線を引いた。やがて、深く息を吐く。
「……わかった」
その一言は、諦めに似ていた。
「飯と宿は、こっちで持つ」
肩がわずかに落ちる。代わりに、覚悟がその背に乗る。
「賢明だ」
シャムロックは短く頷いた。グレンもまた、小さく息を吐く。胸の奥に溜まっていた緊張が、ようやくほどける。
「ただし!」
ゴランが指を突き出す。
「働きは見せてもらうぞ。サボりは許さん」
「当然だ」
シャムロックの返答は軽い。だが、その軽さが逆に自信を示しているようだった。
◆ ◆ ◆
革と油の匂いが混じる中、幌馬車の陰でシャムロックは黙々と剣を研いでいる。砥石と刃が擦れる音が、規則正しく続く。
「なあ……本当に大丈夫なのか?」
不安の滲む声。振り返れば、ゴランが立っていた。
「何がだ」
「あの魔術師の坊やだよ」
言い淀む。言葉の角を削るように。
シャムロックは刃を光にかざし、状態を確かめる。
「あいつか」
「任せていいのか?」
「任せるしかないだろ」
あっさりとした返答。
「俺が前で斬る。あいつが後ろでやる。それだけだ」
ゴランは納得しきれない顔のまま、黙り込む。シャムロックはため息をひとつ落とした。
「決めたのはあんただ。なら、迷うな。不安は隙になる。隙は死を呼ぶ」
低く、重い声。戦場の匂いを含んでいる。
ゴランは息を飲んだ。
「心配なら、荷の確認でもしてろ」
わずかに口元が歪む。
ゴランは何も言えず、ただ頷いた。
◆ ◆ ◆
その様子を、木陰からグレンが見ていた。
言葉は届かない。だが、表情でわかる。
(余計なお世話だ……)
舌打ちが喉の奥で鳴る。
風は熱を帯び、乾いている。
遠くで馬が鼻を鳴らした。
グレンは視線を逸らし、荷物をまとめる。
布の擦れる感触が指に残る。
太陽は高く、容赦なく照りつけていた。
セルディアへの道は長い。
空を見上げ、グレンは静かに息を吐いた。
次回、護衛の旅が始まります。




