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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
交易都市セルディア

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霧の中の狩り場

 冒険者街の酒場は、夜になっても火の落ちる気配がない。

 一階の開け放たれた窓から、光と喧騒と油の匂いを外へと吐き出している。その口のような入口をくぐった瞬間、熱気が肌にまとわりついた。湿った体温と酒気が混ざり合い、空気は重く、わずかに粘り気を帯びている。鼻腔には焼けた脂の匂いと、麦酒の発酵した酸味が入り込み、舌の奥にかすかな苦みを残した。


 奥には使い込まれたカウンターがあり、手前には傷だらけの木の卓が並んでいる。冒険者と荷運びの人足が入り混じり、椅子が擦れる音や食器の触れ合う音が絶え間なく続いていた。混雑してはいるが、座れないほどではない。グレンは壁際の卓を選び、腰を下ろした。背中に触れる壁はわずかに冷たく、汗ばんだ体温を引き取っていく。


 運ばれてきたのは、鹿肉のバター焼きと硬いパン、そして根菜の煮込みだった。皿から立ち上る湯気が鼻先を撫で、バターの濃い香りが広がる。シャムロックが追加で頼んだ麦酒が二つ、木の卓に置かれた。泡が縁からわずかにこぼれ、指先に冷たい湿り気が触れる。


 グレンは一口含み、すぐに眉をひそめた。苦味と酸味が舌の上で広がり、喉を通るときにわずかな刺激が残る。シャムロックは対照的に、半分ほどを一息で流し込み、満足とも無関心ともつかない顔でジョッキを戻した。


 言葉を交わさず、ただ食べ続けた。味を判定するほど舌が育っていない自覚がある。腹に収まれば同じだと、そう割り切りかけて、グレンは思考を止めた。その食べ方を、シャムロックは好まないだろうという感覚があった。理由は説明できない。ただ、そういう空気がある。鹿肉を噛み締めると、表面の焦げがわずかに苦く、内側から脂が滲み出して舌に絡む。飲み込んだあとも、温かさと重みが喉の奥に残る。悪くない。美味いのかもしれない。判断は曖昧なままだった。


 そのとき、奥の席から声が跳ね上がった。


「だから言ってんだろ、あの霧だよ!」


 酔った男がジョッキを振り回し、泡が弧を描いて飛び散る。隣の男が身を引いたが、当人は気にした様子もない。


「西の街道、もう通れたもんじゃねえ!」


 グレンはナイフを持つ手を止めた。西の街道。物流の要だ。そこが機能しないとなれば、この街の血流が滞る。


「どう考えてもおかしいんだよ。風もねえのに動くし、中に入ったら襲われる!」


 別の男が顔をしかめ、低く言う。


「死んだんだろ、護衛が」

「合わせて三人だ」


 酔った男は声量を落としたが、それでも喧騒を突き抜けて届く。


「見えねえんだよ。急に攻撃される。何かに。で、気づいたら倒れてる」


 酒と脂の匂いに満ちた空気の中で、その言葉だけが冷たく浮いた。


「傷はちっちぇえんだ。獣にやられた傷じゃねえ。刃物みてえな穴が一個か二個。モンスターならもっと噛むだろ、引き裂くだろ、食うだろ。だから魔術師だって言ってんだよ!」


 グレンの手が完全に止まった。馬車で聞いた話と同じ構造だ。説明できない現象に恐怖が乗り、原因を外部に求める。その受け皿として魔術師が選ばれる。論理ではなく、感情の流れだ。だが、今の話には一つだけ、引っかかる点があった。


 刃物のような穴が、一つか二つ。


 整いすぎている。モンスターの攻撃にしては雑さがない。しかし、人間の魔術で広範囲の霧を維持しながら精密な殺傷を行うとなれば、成立しない。霧は自然現象か、あるいは魔術的な異常だ。その中に、霧を利用して狩る何かがいる。


「大変そうだなあ」


 シャムロックが鹿肉を噛みながら言った。声には緊張の欠片もない。周囲がざわめいているのに、天気の話でもしているような温度だった。


「他人事みたいに」

「他人事だろ」


 短く言い切り、最後の肉片を飲み込んで椅子を引く。


「ちょっと待ってな」


 立ち上がり、奥の席へ向かう。酔った男たちの輪に、違和感なく滑り込んだ。隣に腰を下ろし、「なあ、霧ってどんなだ? 俺、今日セルディア来たばっかでさ」と声をかけている。


 グレンは動けなかった。


 初対面の相手の会話に、あれほど自然に入り込む行為は、自分には不可能だ。声の角度、距離の詰め方、酔客の懐に入る間合い。そのすべてが過不足なく噛み合っている。自分が同じことをすれば、最初の一言で空気が硬直し、警戒され、場合によっては衝突に発展する。そこまでの流れが、具体的な映像として脳裏に浮かんだ。


 しばらくして、シャムロックが戻ってくる。何事もなかったように椅子に腰を下ろした。


「お前、すごいな」


 半ば呆れた声が漏れた。先ほどまでの思考が一瞬で押し流される。


「おう、そうだろそうだろ」


 即答だった。誇るでもなく、ただ事実を肯定するだけの平坦さがある。そして首を傾げた。


「何が?」


 何を評価されたのか理解していない。それでも頷いたことに、別種の驚きがあった。


「あの輪に普通に入っていっただろ」

「そんなんかよ」


 シャムロックは麦酒を口に含み、喉を鳴らして飲み下す。ジョッキを卓に戻したとき、木が鈍く鳴った。


「褒めのハードル低くてびっくりしたわ」


 感情の起伏は見えない。ただ、事実として拍子抜けしているだけの声だった。この男にとっては、あの程度の行為は呼吸と変わらない。グレンにとっての異様な高さは、そもそも比較の対象にすらなっていない。


「で、聞くの。聞かないの」

「聞く」

「西の街道」


 シャムロックは指を折りながら整理する。周囲の喧騒から一歩引いた声量で、情報だけを手元に落としてくる。


「森の入ると霧が出る。常にじゃないが、出ると視界が死ぬ。その中に何かがいる、らしい」

「魔物か」

「そこまでは不明。誰も見ていない」


 麦酒を一口含み、飲み込んでから続ける。


「隊商の護衛が三人死亡。あと、魔術師がやってるって噂が広がってる」

「馬鹿馬鹿しい」


 グレンは即座に吐き捨てた。ジョッキを握る指に力が入る。


「広範囲の霧を操作しながら、精密な殺傷を同時に行う? 成立しない」

「だろうな」


 シャムロックは軽く笑った。同意というより、反応を予測していた顔だ。


「でも商人は迂回し始めてる。このままだと西の街道は止まる」

「人間の魔術で、広範囲の霧を長時間維持するだけでも負荷が大きい」

「断言するじゃん」

「できるわけがない」


 ジョッキを卓に置く。底が乾いた音を立てた。


「どちらかなら成立する。だが両立は非現実的だ。その労力をかけてやることが荷馬車の襲撃では割に合わない。直接攻撃すればいい話だ」


 シャムロックは空の皿を脇に寄せ、肘を卓に預ける。


「なるほど。労力に見合わないと。まあ、俺たちには関係ないな」


 グレンは答えなかった。指先でジョッキの縁を軽く叩く。乾いた音が規則的に返る。酒場のざわめきは続いているが、耳には入らない。思考が霧の中へ沈んでいる。

 霧が動く。内部に何かがいる。刃物のような穴が一つか二つ。

 魔術師ではない。モンスターの牙や爪でもない。

 ならば何だ。

 霧の中で、標的の位置を正確に捉えている存在がいる。視界を奪う環境の中で、自分だけが見えている。

 もしそういう生物がいるのなら、霧は単なる遮蔽物ではない。


 ひどく都合のいい、狩り場だ。

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