空欄の報告書
受付が奥に消えてから、いくらか時間が過ぎた。ロビーの喧騒は衰える気配もなく続いている。
冒険者たちは卓を囲んで食事を取り、仲間同士で声を張り上げ、誰かが酒杯を木の卓に叩きつけて笑う。その音が鈍く響き、幾重にも重なった声の層が空気を濁らせていた。
煙草の煙はゆるやかに立ち上り、天井の梁のあたりで滞留し、橙色の灯りを鈍く曇らせている。吸い込めば、焦げた葉と油の混じった匂いが喉の奥に貼りついた。踏み固められた木床からは、長年の往来で染み込んだ湿り気を帯びた木の匂いが立ちのぼり、わずかに鼻を刺す。
依頼票の掲示板の前に、数人の冒険者が固まっていた。鎧同士が触れ合う乾いた金属音と、抑えた声のやり取りが低く響く。グレンは背にしていた壁を離れ、そちらへ足を向けた。立ち尽くしていても状況は変わらない。掲示板は情報の集積だ。この街の輪郭を掴むには都合がいい。背後から、シャムロックの緩い足取りがついてくる気配がある。
掲示板の前では、冒険者たちが何かを話している。
「結局どこのパーティなんだ?」
「ナッシュんとこだろ?」
「本人は否定してるって聞いたぞ」
「謙遜だろ。あいつら優等生だし」
言葉は耳に届くが、意味として頭に入ってこない。グレンの視線はすでに紙面に釘付けになっていた。依頼書、素材の買取価格改定、街道の危険区域の更新、討伐報告。整然と並ぶ情報の中で、一枚だけが異様な密度を持って視界に食い込んでくる。
【討伐報告 ベオルン盗賊団壊滅】
討伐者欄が、空白だった。
「はぁ?」
思ったよりもはっきりと声が漏れた。近くにいた冒険者が数人、こちらを一瞥する。だが、グレンはそれに気づく余裕がなかった。視線が張り紙に縫い止められたまま動かない。胸の奥で、何かがゆっくりと滲み出してくる。名前を与えられない感覚だった。怒りとも違う。もっと重く、底に沈んでいる。
隣でシャムロックも同じ張り紙を眺めている。緑の短髪がわずかに揺れ、琥珀色の目が紙面を滑る。その眠たげな印象の奥で、刃のように研がれた観察が働いているのがわかる。
「騙りがいるのかも」
「騙り?」
「そ。実績をでっち上げて、便宜図れってやるやつ」
軽い調子の言い方だったが、声音には熱がない。温度を意図的に削ぎ落としたような平坦さがあった。
「実力以上の利を取れば、どこかで歪みが出る。最後は身動きが取れなくなる」
「まーな」
シャムロックは肩をすくめた。それ以上踏み込む気はないらしい。話題はそこで途切れた。
だがグレンの視線は、なおも空欄から離れない。名誉が欲しいわけではない。そう理解しているはずなのに、白紙の欄を見ていると、胸の奥から何かがじわりと滲んでくる。怒りとも虚しさとも断定できない感情が、形を持たないまま沈殿している。呼吸をするたびに、その澱が肺の奥に触れて湿り気を残す。
問いただすことも、確かめることもせず、グレンは口を閉ざしたままだった。時間だけがゆるやかに流れていく。ロビーの人影が少しずつ減り、受付窓口の灯りが一つずつ落ちていく。夜間の縮小営業に移りつつあるのだ。厨房の奥から、煮込まれた肉と胡椒の匂いが流れてきて、空気の層に重なった。香りは濃く、胃の内側を直接刺激する。
グレンの腹がわずかに収縮した。昼から何も口にしていないことを、身体が遅れて思い出す。空洞が腹の内側に広がり、内臓を引き寄せるような感覚があった。
「遅くないか」
「腹減ったな」
シャムロックも同じことを感じていたらしい。壁にもたれたまま腹のあたりに手を当てる。その仕草はどこか曖昧だが、確かに小さく腹が鳴っている。短い沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れ、そのたびに壁の影が膨らみ、また縮む。
やや間を置いて、シャムロックが言う。
「セルディアって、何が美味いんだ」
唐突な問いだったが、声音は穏やかだった。期待というより、単なる興味に近い。
問われたグレンは、わずかに身体を強張らせた。頭に浮かぶのは、灰色のパンと具の乏しい豆スープばかりだ。
「来たことはあるけど……飯はよくわからん」
味を選べるほど余裕のある生活を、グレンは知らない。
シャムロックは「へぇ」とだけ返した。それ以上踏み込まない。憐れみも嘲りもない。ただ事実をそのまま受け取っただけの視線が、わずかに動いた。
「まあ、これだけの街だ。何かしらあるだろ」
そのとき、奥の扉が開いた。重い樫材の軋む音が響き、静まりかけたロビーの空気を揺らす。受付の女が戻ってくる。歩幅はやや慎重で、靴底が床を打つ音がやけに明瞭に響いた。蝋燭の光が制服の襟章に反射し、鈍い金色を返す。
「大変お待たせいたしました」
業務的な声音の奥に、疲労が滲んでいる。シャムロックが一歩前に出た。
「上の人は何て?」
「明日にでも、証明をお持ちいただけないかと」
机に置かれた彼女の指先が、わずかに震えている。職務と個人的感情の間で揺れているのが見て取れた。
「ランクボーナス要らないって言っても?」
シャムロックの問いは直線的だった。受付の表情に一瞬の迷いが差す。
「できれば、ご提示いただきたいとのことです」
「わかったよ。明日また来る」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
それ以上は食い下がらない。シャムロックは踵を返し、出口へ向かう。その背後で、押し殺したような小さな吐息が聞こえた。
外へ向かいながら、グレンが口を開く。
「もっと絡むと思った」
「あの子も仕事だろ」
短い返答だった。
そのとき、新たな冒険者たちがギルドに入ってきた。男女二人ずつの四人組。先頭は軽鎧に剣を帯びた青年。栗色の髪が汗で額に張りつき、近づくと湿った体臭が鼻を刺した。続いて、大盾を背負った大柄な戦士。床がわずかに軋む。その後ろに弓を担いだ女が続き、最後に白いローブの回復術師が現れる。杖に体重を預けるようにして歩き、足取りは明らかに不安定だった。
四人とも疲労が濃い。泥と汗と、草の匂いが混ざり合い、外の空気をそのまま持ち込んできた。任務帰りなのは一目でわかる。
グレンは、その中の一人――大柄な男の視線がシャムロックを追っていることに気づいた。すれ違いざまの一瞬だけ。足は止めない。ただ視線だけが滑るように向けられる。値踏みするような、静かな圧を含んだ目だった。




