止まる受付の指
扉を押し開けた瞬間、熱が顔にぶつかったとグレンは感じた。
こもった熱気が肌にまとわりつく。煙草の焦げた匂いが鼻腔を刺し、酒の揮発した甘さが喉の奥に貼りつく。人の体温と呼気が混ざり合った空気は重く、肺に入るたびにわずかな抵抗を伴う。床を踏む靴音と椅子を引く擦過音、怒鳴り声と笑い声が幾層にも重なり、壁や天井に反射して濁った塊となって降りてくる。
受付カウンターの前には列ができていた。順番を待つ者たちは落ち着きなく体重を移し、足先で床を叩く。奥のロビーでは、粗い木製のテーブルごとに小さな集団が固まり、食事をかき込む者、酒杯を打ち鳴らす者、羊皮紙を広げて声を潜めながらも熱を帯びた議論を交わす者が入り混じっている。
油で黒ずんだ皿の匂いと焼けた肉の脂が、煙草の煙と絡み合って視界を曇らせる。
エルドンの出張所とは比較にならない。静けさを前提とした場所ではなく、騒がしさそのものが機能として成立している空間だった。
天井は高く、梁がむき出しのまま頭上を横切っている。それでも人の密度が空間を押し下げ、圧迫感に近い充満を生んでいた。音だけでなく、空気そのものがざわめいている。
受付に立つ女に視線が止まる。
二十代半ばほど。栗色の髪を後ろでまとめ、一本の乱れもない。目元は鋭く、視線の動きに迷いがない。書類を捌く手は速く、紙が擦れる音すら一定のリズムを刻んでいる。差し出された証を受け取り、目を走らせ、記録と照合し、返す。その一連が途切れない流れとして繋がっていた。
グレンの冒険者証も同じ流れの中に組み込まれる。
確認、照合、返却。
体感で十秒もかからない。無駄を削ぎ落とした処理だった。
「新規登録したい」
「かしこまりました。こちらにご記入ください。不明点があればお申し付けください」
声に揺れがない。状況に対する感情が混ざらない声だった。
グレンが証を見せている以上、登録者が隣に立つシャムロックであることは明白だ。それでも彼女は視線ひとつ乱さず、規定通りの手順を進める。慣れが感じられた。
シャムロックは用紙を受け取り、カウンターの端へと身体を滑らせた。木の表面に肘をつき、迷いなく書き始める。
興味を惹かれ、隣から覗き込む。遮られることはない。むしろシャムロックは半身を引き、紙面が見やすくなる角度を作った。
名前欄に記された《シャムロック》の文字は大きく、線が太い。ためらいのない筆致だった。出身地には《ロスティリア王国南部》とある。カリスタリアの南に位置する国名だ。
グレンの生まれは北の海の向こう、ノースフォート。
異国人同士だと理解した瞬間、胸の奥をかすめる感覚があった。共感というほど強くはない。だが完全な他人でもないという、曖昧な連帯のようなものだった。
視線が次の欄へ移る。二十三歳。
「思ったより若い」
思わず口に出ていた。
「まいったね、渋さが隠しきれないか」
「そういうのじゃなくて。全然若々しくないから」
「お前、言っていいことと悪いことってあるんだぞ」
抗議はするが、声に棘はない。肩を軽く寄せて視線を遮る仕草をするが、完全には隠さない。拒絶ではなく、形だけの牽制だった。
グレンは構わず続きを追う。戦闘技能の欄には《剣術》と簡潔に書かれている。ここまでは淀みなく進んだが、次の項目で筆が止まった。
直近の実績。
内容によっては初期ランクが変動する。グレン自身は冒険者登録時に、書ける実績など皆無だった。シャムロックは筆を宙に浮かせたまま、グレンの方へ視線を流した。
「直近の実績ってなに書けばいいの」
「そのまま書けばいいだろ」
「エルドン大感謝祭飲み比べ大会優勝とかでいいの」
「いいわけねぇし優勝してないだろ。盛るな」
グレンが呆れると、シャムロックは首を傾げる。
「ほとんど優勝だったって」
表情を変えないままペンを指先で遊ばせる。
「四捨五入すれば優勝だった」
「優勝に四捨五入はない。普通に書けばいいだろ、ベオルン倒しましたで」
「ああ、そういうやつね」
シャムロックが軽く頷いた瞬間だった。受付の女の手が止まる。紙を揃えていた指が、空中で固定される。動きの連続性が、そこだけ断ち切られる。
ほんの一拍。
すぐに指は動き出す。何事もなかったかのように、元のリズムへと戻る。
それでもグレンの神経はその一点に引っかかりを覚えた。
受付が顔を上げる。まずシャムロックを見て、それからゆっくりとグレンを見た。
目は静かだった。だが表層の奥に、もう一層別の思考が走っている。
評価ではない。警戒でもない。照合だとグレンは理解する。手元の情報と、目の前の状況。その二つが一致しないときに生じる一瞬の遅延。
なぜそんな反応になるのか、理由が読めない。
ベオルンは確かに強敵だった。だが賞金首の討伐自体は珍しくない。にもかかわらず、あの一拍は明らかに“想定外”に対する反応だった。
シャムロックが記入を終え、紙を差し出す。
受付はそれを受け取り、目を走らせる。紙の上を滑る視線が、一箇所でわずかに鈍る。
「こちらのベオルン討伐についてですが、確認できるものはお持ちでしょうか」
声がわずかに硬い。エルドンで受け取った報奨金の証明書がある。だが。
「あるけど宿に置いてきちゃったな」
シャムロックが肩をすくめる。
「そうですか……」
言葉の端に逡巡が混じる。
「ありとなしで何か変わる?」
「実績によって初期ランクが一段階変化いたします」
「一段階ってことは、銅級が鉄級になるだけだろ」
グレンが横から口を挟んだ。鉄級など『経験者ではあるが、まだ一人前とは言えない』程度のランクでしかない。要領悪く三年間もがいているグレンですら、苦労なく昇格できた階級だ。
「そうなん? じゃあその実績欄なしでいいよ」
シャムロックはあっさりと結論を出す。受付は一拍置き、控えめに首を振った。
「いえ、少々お待ちください。上長に確認いたします」
深く一礼し、カウンター奥の扉へと消える。扉の閉まる音がやけに大きく響いた。遮られていた喧騒が一気に押し寄せる。声と音と匂いが、再び塊となって空間を満たす。
グレンは前を向いたまま、低く呟く。
「あいつ、何か変だったな」
「まあ、何事も確認は大事なんじゃないの」
シャムロックは依頼書に目を走らせている。興味の対象がすでに別へ移っている。動じていないというより、他人の反応に重きを置いていない。どう見られるかという回路に、そもそも力が入っていない。楽そうに見えた。同時に、どこかが欠けている気もした。
視線を扉へ戻す。受付の反応は、単に実績の真偽を疑ったものなのか。それとも、それとも、別の何かに引っかかったのか。答えはまだ、扉の向こうにある。




