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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
交易都市セルディア

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交易都市セルディア

 門を抜けてすぐ、幅広い通りが北東へと伸びていた。


 石畳の継ぎ目には黒い汚れが沈着し、その上に露店の灯りが途切れなく連なっている。油を燃やす灯火が揺れるたび、橙の光が人々の顔を歪ませては戻す。行商人、地元民、旅人が一つの流れに溶け込みながらも、歩幅も視線も噛み合わないままぶつかり合って進んでいた。


 グレンは無意識に人の流れを観察する。


 どの顔も同じではない。焦燥、苛立ち、打算、疲労、期待。通り過ぎるだけでそれぞれの事情が滲む。それは単なる街道の中継点ではなく、この都市そのものが目的地として機能している証だった。人が通過する場所ではなく、滞留し、絡み合い、沈殿する場所だと理解できる。


 夕焼けの残光が建物の上部にかろうじて引っかかっている。だが通りの主役はすでに灯りへと移っていた。石造りの壁面は橙と影に二分され、路地の奥は黒く沈み込み、光を拒む穴のように口を開けている。


 硫黄の焦げた匂いと魚醤の生臭さ、砂糖を焦がした菓子の甘さが混ざり合い、湿った空気に溶け込んでいた。その空気は温く、肺に入るたびにわずかな重みを伴う。


 シャムロックが肩を回した。

 関節が鳴る乾いた音が、周囲の喧噪から不自然に浮き上がる。


「入れたな」

「全然平気そうだったじゃないか」


 グレンは視線を前に残したまま言葉だけを返す。


「苦手だって。子犬のように怯えてただろ」

「森林狼の間違いだろ」


 軽口を交わしながら歩を進める。人の流れに押されるまま進んでいた足が、分岐点で自然と緩んだ。

 道は北東と西に分かれている。それぞれから異なるざわめきが流れ込んでくる。音の質が違う。片方は商いの声、もう片方は生活のざらつき。都市が複数の鼓動を持っていることを、耳だけで理解できる。


「さて、どうする」


 シャムロックが首を傾げた。


「目的は二つ」


 グレンが指を立てる。


「お前の冒険者登録。それから俺の装備」


 ベオルンとの戦いで、二人はほぼすべての装備品を損壊した。シャムロックはエルドン滞在中にさっさと身なりを整えたが、グレンはそうもいかなかった。宿場町では魔術師用の装備品は取り扱いがなかったのだ。

 シャムロックの視線が自分の身体をなぞるのを感じる。布越しにその意識が伝わってくる。

 生成りのチュニックは繊維が毛羽立ち、裾は擦り切れている。足元のブーツは革が痩せ、歩くたびに頼りない音を立てる。魔術師の記号は何一つ残っていない。


「ほんとに村人だもんな」

「うるさい黙れ」


 返答は即座だったが、怒気は薄い。事実を否定できないときの声だった。

 シャムロックはそれ以上踏み込まない。ただ肩をすくめるだけで距離を保つ。その放置に近い態度がグレンには心地良い。


「武具屋は」

「時間が足りない」

「だろうな」


 ローブは布選びから始まる。織り方、厚み、魔力伝導の癖。仕立てを含めれば最低でも数日は必要になる。杖は既製品があるとしても、相性を見極めずに選べばただの棒に過ぎない。

 どちらも急いで済ませる買い物ではない。


「お前の登録を先に済ませる。今日はそれで終わりだ」

「その前に宿だ。荷物が邪魔」

「冒険者街はこの先だ」


 グレンは南東の区画を指した。三年間この国で冒険者を続けてきた経験がある。とはいえ、前に訪れたときは財布と物価が釣り合わず、数日で逃げるように去った。懐かしさはない。ただ、地理だけは覚えている。


 南東へ進むにつれ、空気がまた変わる。

 革の匂いが濃くなる。金属が擦れる音が増える。声の質が荒く、短くなる。


 武具屋の軒先には使い込まれた革鎧が吊るされ、油で黒ずんだ表面が灯りを鈍く反射している。壁には依頼書が何枚も重ね貼りされ、端が煤けて丸まっていた。紙の白さはほとんど残っていない。


 夜が近づいているにも関わらず、人の密度はむしろ増している。ランタンの下で賽を振る音が乾いて響き、槍の柄を布で磨く手つきが機械的に繰り返される。怒鳴り合いに近い会話がそこかしこで起こり、すぐに別の声に飲み込まれて消える。

 都市の中に、さらに別の街が押し込められているようだった。


 適当な宿を選び、二人部屋を取る。

 扉を閉めた瞬間、外の音が一段だけ遠のく。それでも完全には遮断されない。床板の隙間から廊下の気配が入り込み、古い木材の乾いた匂いが鼻に残る。

 寝台が二つ。軋む音が最初から約束されているような簡素な造り。

 窓は小さく、硝子は曇り、外の光を歪めている。

 そこに映る自分の姿を見て、グレンは一瞬だけ視線を止めた。


 細い。頼りない。どこにでもいる労働者と変わらない輪郭。


 この姿では何も証明できない。

 胸の奥に燻る焦りが、じわりと熱を帯びる。

 自分には魔術しかない。だからこそ、その形を外からも示さなければならない。杖もローブも持たない今の状態は、武器を失った剣士ではなく、剣士であること自体を剥奪された状態に近い。


 一刻も早く取り戻す必要がある。


 中央広場までは徒歩で十五分ほどだった。

 歩くにつれて石畳の質が変わる。粗い継ぎ目が減り、均一な平面へと整えられていく。足裏に伝わる振動が規則的になり、都市の中心へ近づいていることを身体が先に理解する。

 遠くから水音が聞こえ始める。噴水だと分かるまでに時間はかからない。その音に引き寄せられるように、人の声も密度を増していく。


 やがて視界が開けた。


 中央広場。噴水の飛沫が灯りを受けて散り、石畳に細かな光の粒を落としている。

 その正面に、建物があった。


 三階建ての石造り。壁面は煤と雨に灼けて灰褐色に沈み、窓枠の木材は何度も塗り直された跡が重なっている。正面の柱は太く、根元が擦り減って丸みを帯びていた。無数の肩と荷が触れてきた痕だと分かる。

 一階の窓からは橙色の灯りが漏れ、人影が動くたびに光が揺れた。

 扉は開け放たれたままで、中の熱気と声がそのまま夜気に流れ出している。

 壁の高い位置に、鉄製の看板が吊られていた。剣と盾を象った紋章。風を受けて軋むたび、鎖が低い音を立てる。

 紋章の表面は錆が浮き、細部は潰れているが、遠くからでもそれが何を示すかは迷いようがなかった。


 冒険者ギルド、セルディア支部。


 建物そのものが、この街で冒険者という存在がどれだけの年月を費やしてきたかを語っていた。

 華美ではない。だが、軽くもない。

 踏み固められた時間の重さが、石の色と木の擦れ方に沈んでいる。

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