霧と検問
魔術師が杖もローブもなく旅をしている。
その滑稽さを、グレン自身が誰よりも理解していた。
エルドン発の乗合馬車は、検問へと続く列の中で足を止めていた。車輪の軋みと馬の鼻息が、停滞した空気の中で鈍く重なる。頭上にはセルディアの城壁が積み上がり、灰色の塊となって空を圧し潰すように覆いかぶさっている。光は削がれ、視界の奥行きすら奪われるようだった。
隣ではシャムロックが窮屈そうに長い脚を折り曲げ、三度目の欠伸を噛み殺している。吐息がかすかに温く、乾いた藁の匂いに混じった。
先日の戦いで装備はすべて失った。
今の自分には杖もローブもない。どこにでもいるみすぼらしい男だ。
「混んでやがる」
御者が手綱を握ったまま肩を回し、関節を鳴らした。背後の木箱に腰掛けていた中年の男が、喉に引っかかるような声で応じる。
「霧の件じゃないか」
帽子を目深に被った男の声は掠れていた。言葉を吐くたびに喉仏が震え、その振動がやけに生々しく目に入る。隣の行商人が身を乗り出し、周囲を気にしながら声を潜めた。
「魔術師が霧を起こしてるって噂、聞いたかい?」
「酒場の陰謀好きが吹かしてるだけだろ」
「でもな、森の方で魔術の光を見たっていう奴が……」
「それだけで魔術師の仕業ってのは、早計じゃねえのか」
「だけどなあ、人が死んでるんだろ。怖いもんは怖いよ」
言葉が途切れた瞬間、馬車の中に冷たい隙間が生まれた。
誰もが視線を正面に固定したまま、意識だけを周囲へと滲ませる。直接見ようとはしない。だが確かに探っている。この中に魔術師がいるのではないか、と。
疑念は目に見えない糸となり、狭い車内に張り巡らされていた。
グレンは窓枠に肘を預けたまま、外へ視線を逃がす。木枠のざらつきが肌に引っかかる。視界の先、沈みかけた太陽の手前に、黒い影が横たわっていた。
輪郭は曖昧で、ところどころが揺らいでいる。
カリスタリア王国の西部に広がる巨大な森――大森林。
浅層域は比較的安全だが、中心部は強力なモンスターが跋扈する魔窟だと聞く。遠目にも、その密度は異様だった。木々が重なり合い、光を拒み、ひとつの塊としてうねっている。
霧の話は、エルドンで療養している間にも耳にしていた。
セルディアから西へ伸びる街道、大森林の浅層域を抜ける道で、不自然な霧が発生し、人が死ぬのだという。
魔術で霧は作れる。空気中の水分を冷却すればいい。
だが、広範囲に展開し、それを長時間維持するとなれば話は変わる。術式は複雑化し、制御は極端に繊細になり、魔力の消耗は現実的な範囲を逸脱する。
少なくとも、自分でやろうとは思わない。
――なら、何が霧を生み出している。
思考はそこまで進み、止まる。
車内の連中が求めているのは、そんな理屈ではないと理解しているからだ。
彼らは納得したい。
形を与え、原因を定め、排除できると信じたい。
そして魔術師という都合のいい対象がある。
グレンは無意識に自分の袖口を見下ろした。生成りのチュニックは擦り切れ、首元はわずかに緩んでいる。腰紐で留めただけの簡素な装いは、農村から流れてきた若い労働者にしか見えない。
視線は、こちらに留まらない。そのことに、かすかな安堵が混じる。
「なあ」
隣から声が落ちてきた。シャムロックは姿勢を変えないまま、視線だけを外に向けている。
「何だよ」
「検問って苦手なんだよな」
抑揚のない声だった。ぼやきとも独り言ともつかない。
グレンは一拍置いて答える。
「へぇ」
「あいつら、とりあえずいちゃもんつけてくるだろ」
「お前が怪しいからだろ」
シャムロックはゆっくりと髪を掻いた。動きが鈍い。眠気を引きずっているようにも見える。
「見るからに善良な一市民だろうが」
「嘘つけ」
抱えたロングソードの柄に、低く傾いた光が鈍く反射する。軽装とはいえ鎧は要所を覆い、長い四肢と相まって無視できない圧を生んでいる。
ただ一つ救いがあるとすれば、表情だった。無気力で、空虚で、感情の所在が読み取れない。
やがて列が動き出し、車輪が石畳を踏む振動が足元から伝わってくる。
遠くで鐘が鳴った。
低く、重く、腹の奥に響く音だった。
一打、二打、三打。
そのたびに光が削られ、空気の色が変わる。街全体が、ゆっくりと夜へ沈んでいく。
日が落ちきる前に、彼らの順番が回ってきた。
兵士が二人、馬車の脇に立つ。革鎧の擦れる音、金具の触れ合う乾いた響き。ひとりが御者に書類を求め、もうひとりが荷台を覗き込む。
「降りてくれ。身分の確認をする」
乗客が順に地面へ降りる。靴底が土を踏み、砂がわずかに鳴る。
グレンもシャムロックも、それに続いた。
「職業を」
グレンが先に答える。
「冒険者」
視線が動いた。頭の先から足元まで、ゆっくりと舐めるように。
武装はない。装いは粗末。兵士の眉間に皺が寄る。
「……証明を」
グレンは無言で首元から金属プレートを引き出した。指先にひんやりとした冷たさが残る。それを差し出すと、兵士は受け取り、刻印を凝視した。
一度、二度。証明と本人を往復する視線。
「本物か……」
小さな呟き。
だが、はっきりと聞こえた。
「何か?」
グレンは表情を変えずに問い返す。声は静かで、平坦だった。感情が乗っていないことが、逆に圧になる。
兵士は言葉を飲み込み、証明書を返した。
そして視線が横へ滑り――持ち上がる。
「そっちは」
「シャムロック」
「職業を聞いている」
「無職かなぁ、強いて言えば」
一瞬の空白。兵士の喉仏が上下する。
無職のような冒険者と、冒険者のような無職。
理解が追いつかない。
グレンは小さく息を吐いた。
「強いて言わなくても無職だよ」
「よせよ。照れるだろ」
シャムロックがこちらを見る。口元は動かない。だが、確かに笑っている気配があった。そのズレが、妙に可笑しい。
背後で咳払いが起きた。兵士は我に返ったように手を振る。
「——通れ」
城門をくぐった瞬間、空気が変わったとグレンははっきりと感じた。
鼻腔に刺さる香辛料の刺激。揮発した酒精が粘りつくように喉に絡む。汗と泥と獣脂を含んだ重たい風が頬を撫で、皮膚の上に薄い膜のようにまとわりついてくる。石畳を打つ足音が幾重にも重なり、乾いた音と湿った音が混線して耳の奥を震わせる。露天商の怒鳴り声と値切る声が交差し、どこかから流れてくる弦楽器の旋律が、そのすべてに押し潰されながらもかろうじて形を保っていた。
押し寄せてくる感覚の波に、グレンはわずかに息を浅くする。
セルディアだった。
ただの都市ではない。外から見ていた石の塊ではなく、内側から脈打つ生き物のような存在だった。
第二話開始です。




