名を呼ぶ距離
しばらくして、扉が軋む低い音がした。乾いた金属が擦れるような、不快な響きだった。
グレンはわずかに眉を寄せる。次の瞬間、見慣れた緑の髪が隙間から覗いた。
「よう、調子はどうだ?」
平坦な声だった。抑揚が薄く、温度が読み取れない。
しかし同時に、甘い香りがふわりと流れ込んできた。熟れた林檎の匂いだった。病室に染みついた薬草と消毒液の臭気を、柔らかく押しのける。
「……別に」
グレンは短く答えながら、毛布の端を指で摘まむ。繊維のざらつきが爪に引っかかる。
「そりゃ良かった」
男――シャムロックは気負いなく言い、椅子を引いた。木脚が床を擦り、鈍い音が響く。
机に籠を置くと、水差しのガラスが小さく震え、乾いた音を立てた。
先に退院してからというもの、毎日来る。
それが気遣いなのか、義務なのか、グレンには判別できなかった。
「毎日来るけど、暇なのか?」
探るような声音になる。
シャムロックはどっかりと腰を下ろし、籠から林檎を一つ取り出した。赤い皮に刃が食い込み、しゃり、と軽やかな音がした。
果汁の匂いが、さらに強くなる。
「まあな。褒賞金受け取るまでは」
淡々とした声に、グレンは胡散臭げな目を向けた。
「金なんかどうでもいいみたいな顔してたくせに」
「金貨八十枚は訳が違うだろ。それに、ちょっと事情が変わってな」
「事情?」
刃が果肉を裂く音が、規則的に続く。一定のリズム。無駄がない。
「一人でフラフラしてるのも飽きてきたし、俺も冒険者やってみようかと思って」
「ふ、うん。いいんじゃないか」
喉がわずかに引き攣る。声が微妙に浮いた。自覚して、余計に居心地が悪くなる。
切り分けられた林檎が皿に並べられ、差し出された。甘い匂いが、逃げ場なく鼻を満たす。
「冒険者のなり方教えてくれよ」
まるで明日の天気を尋ねるような気軽さだった。グレンは眉をひそめる。
「ギルドで登録するだけだよ」
突き放すように言う。実際、冒険者になるだけなら自分の名前さえ書ければいい。
「ギルドどこにあるんだよ」
「このあたりだとセルディアだな」
視線を窓に逃がす。外の光が白く滲む。エルドンには小さな出張所しかない。登録には支部まで足を運ぶ必要がある。
「案内してくれよ。俺方向音痴だから」
明らかに嘘だった。街道での動きが脳裏に浮かぶ。迷いなど一度もなかった。
「今までそんな素振り一切なかったよね」
「あと実は人見知りで初対面の相手と上手くおしゃべりできないから付き添ってほしい」
「よく真顔でそんな白々しい嘘付けるな」
「いやいや、本当だって」
シャムロックは鼻を鳴らし、林檎を口に放り込む。咀嚼音が小さく響く。グレンは腕を組み、視線を突き刺す。
「何が狙いだ」
ここまで茶番が続けば、さすがに気付く。シャムロックはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「俺と組もうぜ」
思考が止まる。
「は?」
間抜けな声が出た。シャムロックは飄々とした表情を崩さない。
「別に無理にとは言わない。ただ、お前となら色々都合がいい」
「都合って」
「俺は剣、お前は魔法。前衛と後衛。バランスいいだろ」
理屈としては正しい。それが余計に腹立たしい。
グレンは考えるふりをする。実際には、考えはまとまらない。視線が揺れる。
「自慢じゃないが」
真摯な声に、剣士は僅かに身構えた。
「俺は他人とまともに組めたことがない」
「ほんとに自慢じゃなくてビックリしたわ」
「そんな俺と組めるのかお前は」
「なんで問題ありそうなそっちが上からなんだよ」
うめくシャムロックを無視して、グレンはさらに言い募る。
「『組もうぜ』って言われて真に受けて『やっぱ無理』ってなったら傷付くだろうが。平気な振りをしながら一年くらい引きずる俺の身にもなってみろ」
「長い長い。三時間でいいだろそんなん。それに、この道中でも特に問題なかっただろ」
あの時の連携が、鮮明に思い出される。否定しきれない。
「俺になくてもお前にはあるかもしれないだろ!」
「お前にはないのかよ」
「なかったよ! 何なんだよお前!」
「いやこっちの台詞だわ」
茶番を茶番で返されたシャムロックが面倒くさそうに頭を掻く。
「じゃあもうコンビ組むってことでいいな? いいよな?」
押し切るような言い方に、グレンは一瞬だけたじろぐ。
「……お前がどうしてもって言うなら考えてやらんこともない」
「はいはいどうしてもどうしても」
シャムロックの軽い返事にグレンは唇を引き結ぶが、僅かに唇の端が持ち上がるのを抑えきれなかった。
「それでだ」
シャムロックが椅子に深く腰掛けると、木材が軋む。窓から差し込む午後の光が、彼の緑髪を金色に縁取っている。
「何だよ」
嫌な予感がする。グレンは警戒するように眉をひそめた。さっきまでの和やかな空気が一変し、ピリッとした緊張感が漂う。
「いい加減、名前で呼べよ」
その言葉に、グレンの動きが電流を流されたように停止した。指先がぴくりと震え、林檎の切れ端を載せた皿が微かに揺れる。
「……は?」
声が掠れる。視界が妙に鮮明になる。指先が震え、皿がかすかに鳴る。冗談かと思い、薄笑いを浮かべかけて止まる。シャムロックの琥珀色の瞳には、予想外に真剣な光があった。
「俺の名前は『お前』じゃないし、『おい』でも『なあ』でもない」
「……別に、通じるだろ」
言葉が硬い。だが、声が揺れている。視線を彷徨わせ、指で毛布の皺を数える仕草が、動揺を露呈していた。
「正式に組むなら必要だろ」
あっさりとした言い方だった。それが、逃げ場を塞ぐ。鼓動が早鐘を打ち始めた。
「………………」
永遠にも感じる十秒が過ぎる。グレンは喉仏を上下させ、何かを振り払うように大きく息を吸った。
「……シャ、ム」
途切れた言葉。舌が絡まり、呼吸が乱れる。羞恥心が波のように押し寄せ、頬が熱くなるのを感じた。
舌打ちが漏れる。顔を背け、毛布の端をぎゅっと握りしめる。掌に爪が食い込み、痛みが思考を鮮明にする。
「ロック……これでいいだろ」
精一杯の譲歩。掠れた声は、敗北宣言のように響いた。
「まぁ、今日のところはそれで勘弁してやるよ」
穏やかな声だった。その響きに、わずかな熱が混じる。
窓の外では黄昏が深まり、西の空が茜色から紫紺へと溶け込んでいく。風が梢を揺らす音が聞こえ、新しい日々の訪れを静かに告げていた。
――これからどんな旅路を歩むのか。答えはまだ見えない。だが、少なくとも今の彼等には、そんな未来への不安よりも遥かに強い、確かで曖昧な絆があった。
あの日、血に塗れた街道で、この男は確かに言ったのだ。
「大丈夫だ」「俺がついてる」と。
それだけで、もう独りではないと理解した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第一話「出会いと旅立ち」はこれで完結です。
第二話ではセルディアを舞台に、二人の物語が続きます。
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