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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
銀貨二十枚の護衛

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英雄と呼ばれて

 翌朝の回診。白木の床を踏む革靴の音が、乾いた空気の中で軽やかに弾んだ。いつもよりも柔らかく響いて聞こえるのは、自分の気分のせいだろうかと、グレンはぼんやりと思う。

 消毒薬の匂いが薄く漂う室内で、グレンは唇を湿らせ、意を決して口を開いた。


「先生……その、入院費のことなんですが」


 嗄れた声が、自分でも頼りなく聞こえた。

 カルテをめくる老医師の指が、かさりと乾いた音を立てて止まる。枯れ枝のように細い指先。丸眼鏡の奥から覗く目が、グレンの顔をじっと捉えた。


「ああ、心配せんでいい」


 穏やかな声だった。


「今回は市が全面支援してくれる。街道を救った英雄じゃからな」


 英雄という言葉が、胸の奥に引っかかる。大きすぎる響きに、頬の筋肉がわずかに引き攣った。

 だが同時に、胸の内側に溜まっていた重たい塊が、すっとほどけていくのを感じた。呼吸が少しだけ深くなる。


「衛兵隊からの報酬もあるし……まあ、普通の患者と同じ程度で済むじゃろう」


 老医師は喉の奥で柔らかく笑う。その笑みの皺が、妙に温かく見えた。


「……ありがとうございます」


 頭を下げる。声は驚くほど素直に出た。額の奥に残っていた緊張が、ゆっくりと抜けていく。

 問題がすべて解決したわけではない。それでも、足元が崩れ落ちるような不安からは、一歩だけ離れられた気がした。


 ◆ ◆ ◆


 昼過ぎ。陽が高くなり、窓から差し込む光が白い壁を明るく照らしている。静かな室内に、軽やかなノックが三度響いた。

 扉が開くと、外の空気がわずかに流れ込み、乾いた紙とインクの匂いが混ざる。

 入ってきたのは、麻の上着に革帯を締めた壮年の衛兵と、袖に黒い染みを残した若い書記官だった。


「グレン殿、お加減はいかがですか」


 クリストファーと名乗った衛兵は、穏やかな声音でそう言った。木脚が床を擦る音が小さく鳴る。


「……どうも」


 グレンは身を起こしながら短く応じる。喉がまだひりつき、声がわずかに掠れる。


「此度の件、貴殿のご尽力あっての解決と存じます。改めて御礼申し上げます」


 深く頭を下げる動きに合わせ、空気がわずかに揺れる。書記官も慌てて同じように頭を下げた。ぎこちないその所作に、グレンは思わず視線を逸らした。


「いや……俺は、ほとんど何も」

「ご謙遜を」


 柔らかく制される。クリストファーは羊皮紙を卓上に広げ、整然と位置を直した。紙の擦れる音が静かに響く。


「シャムロック殿から伺っております。貴殿の魔術が決め手となったと」

「違います」


 思わず語気が強くなった。灰青の瞳に影が落ちる。


「俺は……一方的に嬲られただけです。術式すらまともに紡げなかった」


 言葉にするたび、皮膚の奥に残る痛みが蘇る。拘束された感触。呼吸の詰まる感覚。

 クリストファーはすぐには返さず、一拍置いてから口を開いた。


「それでも、最終的には貴殿の術が彼らを退けたのです」

「それは偶然です」


 喉の奥が焼けるように痛む。善意だと分かっている。それでも、その言葉はどこか現実から浮いているように感じられた。


「我々は、貴殿を町の恩人と認識しております」


 恩人。その言葉が重く胸に沈む。グレンは膝の上で拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込む感触が、かすかに伝わる。


「……別に、町のために戦ったわけじゃない」

「承知しております」


 クリストファーは穏やかに頷いた。


「ですが、結果として町は救われた。その事実は変わりません」


 静かな声だったが、揺るがない重さがあった。


「それを記録として残したいのです」

「記録……」

「はい。調書を作成し、上層部へ提出いたします」


 書記官が羽ペンを取り、インク壺に浸す。ペン先が紙に触れ、カリカリと乾いた音が規則的に響き始めた。


「いくつか質問を」

「……構いません」


 短く息を吐き、グレンは応じる。


「最初に接触したのは?」

「隊商護衛中です。休憩中に襲われました」

「人数は?」

「斥候が四人。本隊は……四十前後」


 質問が続く。言葉を選び、記憶を手繰り寄せるたびに、頭の奥がじんと熱を持つ。ときおり言葉に詰まり、眉を寄せる。沈黙の間、ペンの音だけが続く。


「シャムロック殿とは以前から?」

「……いえ。今回が初めてです」


 一瞬、言葉が止まる。


「でも……あいつがいなければ、俺は死んでいました」


 口にした瞬間、その事実が改めて重みを持って胸に落ちた。

 クリストファーが目を細める。


「シャムロック殿も同じことを仰っていました」

「……そうですか」


 予想外の言葉に、胸の奥がわずかに温む。あの男の無表情の裏側が、ほんの少しだけ見えた気がした。


「両名の連携が勝因、ということですね」


 書記官が頷きながら文字を書き足す。インクの匂いがわずかに強くなる。

 やがて日が傾き、窓から差し込む光が橙へと変わるころ、調書は完成した。


「以上です。ご協力ありがとうございました」


 深く一礼される。グレンは長く息を吐き、背中を寝台に預けた。思っていた以上に消耗していた。


「報奨金については後日正式に通知されます。受領時期は体調に応じて調整可能です」

「……わかりました」

「では、どうかご自愛ください」


 二人は丁寧に頭を下げ、静かに退室した。扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかる。やがて何も聞こえなくなる。

 静寂が戻る。

 グレンは窓の外を見た。朱に染まった雲がゆっくりと流れている。柔らかな光が室内に差し込み、白い壁に長い影を落とす。

 英雄。恩人。連携。

 耳に残った言葉が、泡のように浮かんでは消える。


「……英雄、か」


 小さく呟く。口の中に、どこか落ち着かない感触が残る。

 自分はそんな存在ではない。ただ必死に足掻いただけ。運よく生き延びただけだ。

 それなのに。


「……ちょっと嬉しいなんて、おかしいよな」


 かすかに笑う。胸の奥で、小さな灯のような感情が揺れている。

 グレンはゆっくりと目を閉じた。

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