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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
銀貨二十枚の護衛

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終焉と残滓の夜

「ヴェルンハイトは、もうこの世にいないらしい」


 シャムロックの声が、夕暮れの静まり返った空気を鋭く裂いた。窓から差し込む橙の光が、白い壁を鈍く照らしている。治療院の硬い寝台の上で半身を起こしていたグレンは、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。音だけが頭蓋の内側で反響し、遅れて輪郭を持ちはじめる。


「……死んだ?」


 喉がひりつき、声は乾いた息のように漏れた。枕元の陽だまりに浮かぶ微細な塵が、ゆっくりと漂っている。さっきまで温かく感じていた光が、急に色褪せて見えた。


「三年前だとさ。自分の研究所で事故があって、巻き込まれたらしい」


 シャムロックは椅子に腰を下ろし、窓枠に肘を預けた。その動作がやけに遠く、鈍く見える。


「事故? 嘘だ」


 即座に否定の言葉が出た。胸の奥に灰色の靄が広がる。あの男が、そんなありふれた最期を迎えるはずがない。

 一拍の間を置いて、シャムロックが続ける。


「二か所から聞いた。一つは商人ギルドの流通記録だ。ヴェルンハイト侯爵名義の取引が三年前で止まってる。もう一つは……まあ、裏取りが甘いがな」

「……確認しきれてない?」

「死亡の公式発表がない。事故とも、研究の暴走とも言われてる。誰かが隠してる可能性もある」


 喉の奥がきつく締まる。息が浅くなる。


「じゃあ……ベオルンは、なんで……?」


 震える声で問い返すと、シャムロックは淡々と答えた。


「死後の混乱に乗じて好き勝手やってただけだろうな。少なくとも、あいつの指示じゃない」


 その冷静さが、刃物のように胸へ沈む。三年間逃げ続けてきた恐怖の中心が、すでに存在していなかったという事実が、頭の奥で氷の塊になって落ちてくる。


「……バカみたいだ」


 乾いた笑いが喉から漏れた。顔を伏せると、枕の湿った布地が鼻先に触れる。わずかに黴臭さを含んだ藁の匂いが、強く鼻腔を刺した。

 そのまま動けなくなる。沈黙が長く続く。

 やがて喉の奥で何かが崩れ、嗚咽が漏れた。熱いものが頬を伝い、枕に吸い込まれていく。息が乱れ、胸が上下するたびに傷が鈍く軋む。肩が小刻みに震え、呼吸のたびに涙が滲む。

 三年間、背中に張りついて離れなかった恐怖。逃げ続けた日々。積み重ねた警戒と疲労。そのすべてが、形を持たない熱となって溢れ出ていく。

 けれど、消えたのは脅威であって、恐怖そのものではない。体の奥に染みついた反応は、まだそこにある。

 シャムロックは何も言わなかった。ただ窓辺にもたれ、外の景色を眺めている。外では街灯に火が入り、橙の光がひとつ、またひとつと闇に浮かび上がる。

 かつて背後にあったはずの影は、もうどこにもない。それでも胸の奥に燻っていた熱は、ようやく静かに弱まり始めていた。


「……ありがとう。助かった」


 袖で涙を拭いながら顔を上げる。鼻の奥がつんと痛む。声はまだ不安定だったが、言葉だけはまっすぐに出た。


「気にするな」


 シャムロックは短く答え、立ち上がって扉に手をかける。そこでふと動きを止め、振り返った。


「あー……そうだ」

「なに」

「すっかり忘れてたんだが……ベオルンの件で賞金が出る」

「は?」


 思考が一瞬で止まる。涙で滲んでいた視界が、不意に鮮明になる。


「東方領で指名手配されてたらしい。衛兵隊が確認して、支払いの手続きが進んでる」

「賞金……」


 口の中で言葉を転がすと、現実の重みが急速に戻ってくる。つい先ほどまで胸を満たしていた感情が、別の方向へ引き剥がされていく。


「……いくらぐらい?」


 恐る恐る訊ねると、シャムロックは指を二本立てた。

 胸がどくりと跳ねる。


「にま……いや、にじゅうまい……? 金貨だよな? 銀貨じゃないよな?」

「銀貨で支払われる賞金首はいねぇよ」


 軽く笑われ、唾が自然と湧く。金貨二十枚でも十分すぎる。頭の中で宿代や食費が弾かれ始める。


「金貨二百枚だ」

「きんかにひゃくまい!?」


 声が裏返る。視界が揺れ、頭の中に金貨の山が広がる。光沢のある円盤が積み重なり、音を立てて崩れ落ちる幻が浮かぶ。


「取り分は八割らしい」

「にひゃく……はちわり……え……百六十枚?」


 数字がうまく繋がらない。思考が空回りし、現実感が薄れる。


「まあ、治療費でどれだけ飛ぶかだな」

「入院費……!」


 一瞬で血の気が引いた。腹部の鈍い痛みが現実を引き戻す。治療に使われた魔術、薬、設備。それらの重さが、金貨と同じ質量でのしかかる。


「……足りなかったら?」

「借金だな」

「やだ!」


 反射的に叫ぶと、シャムロックが低く笑う。その余裕が逆に焦燥を煽る。


「冗談だ。消えはしねぇよ」

「ほんとか……?」


 縋るように見上げると、肩を竦めて軽く受け流された。


「金の話は後だ。今日は寝ろ」

「……うん」


 全身の力が抜ける。寝台に身を沈めると、布のざらつきと体温の残りが背中に伝わる。天井の梁をぼんやりと見つめながら、思考はまた金貨へ戻っていく。


 二百枚。八割。百六十枚。自分の取り分。治療費。新しいローブ。杖。靴。薬代。


 現実と欲望と不安が交互に浮かび、やがてすべてがぼやけていく。瞼が重くなり、音も光も遠ざかる。

 最後に浮かんだのは、積み上がった金貨の鈍い光だった。

 その光もやがて闇に沈み、グレンは深い眠りへと落ちていった。

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