灯る微かな信頼
グレンが次に目を覚ましたとき、窓枠の隙間から射し込む光はすでに傾き、白い壁を鈍い黄金色に染めていた。光は柔らかく広がりながらも、どこか冷たさを帯びている。横に視線を流すと、窓際にシャムロックの姿があった。肘をつき、外気を含んだ風に緑の髪がかすかに揺れる。黄金の瞳が、じっとこちらを捉えていた。
「魘されてたぞ」
低く抑えた声が、静かな室内に落ちる。淡々とした調子の奥に、わずかな気遣いが混じっているのを、グレンは確かに感じ取った。
「……悪い」
喉の奥が乾き、声は思った以上に擦れていた。起き上がろうと左手に力を込めた瞬間、腹部の奥で鈍い痛みが脈打つ。息が詰まり、押し殺した呻きが漏れた。
「しばらく休んどけ。晩飯持ってきてやるよ」
それだけ言うと、シャムロックは立ち上がり、扉へ向かった。革靴の音が床を打ち、やがて遠ざかる。扉が閉まると、室内には音が消え、重い静けさが満ちた。
寝具の布は清潔で、わずかに乾いた香りがする。遠くから、煮炊きの匂いが漂ってきた。野菜の甘い匂いと、油のかすかな焦げた匂い。それらが現実の穏やかさを伝えてくるほどに、自分の内側との乖離が際立つ。
ヴェルンハイトは、自分を探している。
思考が形を取るより先に、胸の奥がざわついた。ベオルンが海を越えて現れた事実が、何度も脳裏で繰り返される。距離も時間も意味を持たないかのように、あの男の執念が迫ってくる。
ここに留まれば、いずれ辿り着かれる。
その確信だけが、冷たく沈んでいた。
逃げなければという焦りが、じわじわと全身に広がる。だが、力を入れても身体は鈍く軋むだけで応えない。脚も腕も、まるで他人のもののように重い。
行き場のない思考が絡み合い、胸が締めつけられる。呼吸が浅くなり、空気がうまく入ってこない。
(ダメだ、落ち着け……!)
歯を食いしばり、意識的に息を吸い込む。肺が痛み、吐く息がわずかに震える。何度も繰り返すうちに、少しずつ呼吸のリズムが戻り、心臓の鼓動も落ち着きを取り戻していく。
そのとき、控えめなノックが響いた。続いて扉が開き、シャムロックが戻ってくる。手にした木製の盆から、湯気が立ち上っていた。温かい匂いが室内に広がる。
卵と麦粉の粥からは柔らかな甘い匂いが漂い、香草を散らした野菜の煮込みは、青い香りとわずかな苦味を含んでいる。
「これくらいなら胃に入るだろ」
差し出された椀に手を伸ばす。だが指先が細かく震え、思うように力が入らない。椀の縁に触れた瞬間、わずかに傾き、音を立てて盆へ戻った。
「……くそっ」
舌打ちが漏れる。自分の身体が思い通りにならないことが、苛立ちとなって胸に溜まる。
「無理すんな」
シャムロックは静かに言い、椅子を引き寄せて腰を下ろした。匙で粥を掬い、軽く息を吹きかける。
「ほれ。熱いぞ、ふーふーしてやろうか」
「馬鹿にするな。こんなのあっつっ!」
半ば反射的に口を開けた瞬間、熱が舌に刺さる。焼けつくような刺激に思わず咳き込み、喉の奥がひりついた。
シャムロックの喉の奥から、低い笑いが漏れた。
「ほら見ろ。だから言っただろ」
「……!」
唇を噛みしめる。結局、匙は再び差し出される。ゆっくりと、逃げ場を塞ぐように。
口を開けば、適度に冷ました粥が流れ込む。柔らかな食感と温もりが、胃へと落ちていく。だが同時に、誰かに世話をされているという事実が、胸の奥をざらつかせた。
視線を逸らし、宙をさまよう。
「美味いか?」
「……普通」
短く答えると、シャムロックは小さく笑った。
「まあ、病人食だからな。我慢しろ」
食事を終えた頃、ノックの音がした。看護師が素焼きの壺を抱えて入ってくる。蓋が開けられた瞬間、強烈な臭気が鼻を突いた。発酵したような酸味と、腐葉土を思わせる湿った匂いが混ざり合っている。
中の液体は濁り、粘り気を帯びていた。底に沈んだ樹皮や茸が、ゆらりと揺れる。
「よく効くぞ。俺も昔飲まされた」
シャムロックの声に、わずかな愉快さが混じる。反発するように椀を口へ運ぶが、舌に触れた瞬間、強烈な苦味と酸味が広がった。喉が拒絶し、思わず嗚咽が漏れる。
「……おいおい、大丈夫か?」
上から降る声に、頬が熱くなるのを感じた。
「……飲める。これくらい、平気だ」
無理に飲み込む。液体が喉を通り過ぎた後も、苦味が舌の裏に張りつき、いつまでも消えない。
「偉いぞ」
次の瞬間、大きな手が頭に乗せられた。指が髪をかき混ぜる。無遠慮で、それでいてどこか柔らかい感触だった。
反射的に肩が跳ねる。腕に痛みが走り、動きが止まる。
「やめろ。子ども扱いするな」
「……何言ってんだ、ガキだろ」
シャムロックはわずかに視線を逸らした。無意識に触れたことに気づいたような、微妙な間が生まれる。
「もう十九だ!」
「そういう反応がガキだって言ってるんだ」
言葉が詰まる。胸の奥で、反発と諦めが入り混じる。
「……なあ、ゴランたちは無事だったのか?」
話題を変えるように問いかける。シャムロックはあっさりと頷いた。
「ああ。全員無事だ。納期が迫ってるらしくて昨日街を出た。お前が昏睡してる間、見舞いに来ていたぞ。ずいぶんと感謝してた」
「そうか……良かった」
胸の奥に溜まっていたものが、わずかにほどける。だが、それでも不安は消えない。
「それで……ヴェルンハイトのことだが」
シャムロックが椅子に座り直し、真正面から見据える。
「俺の方で少し調べてやるよ。情報屋や商人ギルドの連中ならノースフォートの情報にも明るいだろ」
「お前が?」
「お前はまだ動けないだろ、任せろよ」
その言葉が胸に落ちた。重さではなく、じんわりとした熱として広がる。誰かに頼るという感覚に、わずかな戸惑いが残る。それでも拒む理由は見つからなかった。
「ありがとう」
短く告げると、シャムロックは一瞬だけ意外そうに目を細め、すぐに口角を上げた。
「ま、貸しってやつだ」
そう言い残し、手を振って部屋を出ていく。扉が閉まり、再び静寂が戻る。
窓の外では、橙色の光がゆっくりと藍へと沈んでいく。室内の空気も、わずかに冷え始めていた。
頼ってもいいのか、とグレンは思う。
これまで一人で生きてきた。弱みを見せることは、危険そのものだった。だが今は、その前提が揺らいでいる。
胸の奥に、小さな灯がともるような感覚があった。
明日になれば、何かが変わるかもしれない。
その曖昧な予感を抱いたまま、グレンは静かに瞼を閉じた。意識はゆっくりと沈んでいく。不安は消えないまま、それでも先ほどよりはわずかに穏やかな形で。




