目覚めは悪夢の続き
グレンは薄く瞼を開いた。
視界に入ったのは、古びた天井板だった。節目が波打つように歪み、焦点が定まらない。鼻腔を刺す消毒薬の匂いが、遅れて意識に届く。どこかで水滴が落ちるような音がして、視線をわずかに動かすと、点滴袋から透明な雫が規則的に垂れていた。さらに遠く、小鳥のさえずりが細く重なり、外界の存在をかすかに知らせてくる。
意識が水底から浮かび上がるように、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。それと同時に、喉の奥が焼けつくように乾いた。
「……ここは」
声を出したつもりだったが、掠れてほとんど形にならなかった。唇の内側がひび割れたように痛む。半身を起こそうと力を込めた瞬間、右腕に鋭い痛みが走った。神経を直接掴まれたような衝撃に、思わず息が詰まる。
「動くな」
すぐ傍で低い声が響いた。その音の位置に視線を向けると、シャムロックが椅子から立ち上がるところだった。水差しの中で液体がかすかに揺れ、光を鈍く反射する。
無言のまま背後に回り込まれ、腕が背に差し入れられる。布越しに伝わる体温が、異様に熱く感じられた。支えられて上半身が持ち上がる。視界がわずかに安定するが、その分、痛みも鮮明になる。
差し出されたグラスに手を伸ばそうとした瞬間、右腕に再び激痛が走った。堪えきれず、喉の奥から小さな呻きが漏れる。
シャムロックは体勢を変え、寝台に体を半分乗せた。上腕でグレンの頭を支え、そのままグラスを傾ける。
「ゆっくり飲め」
「……ああ」
蜜柑水が唇に触れた。冷たい液体が口内に流れ込み、乾ききった粘膜をなぞる。甘酸っぱい香りが鼻腔を抜け、喉を通るたびにひりつく痛みがわずかに和らいでいく。数口飲み下したところで、ようやく肺に空気が満ちる感覚が戻ってきた。
生きているという実感が、遅れて胸の奥に落ちた。締めつけるような感覚が、内側からじわりと広がる。
「気分はどうだ?」
「悪くない……と思う」
答えながら、視線が自然とシャムロックの左腕へ向かった。包帯が巻かれているが、大きく腫れてはいない。布の下に血が滲んでいないことを確認し、わずかに息が抜ける。
その直後、意識の奥に黒い影が差し込んだ。
(ベオルン)
喉がひゅっと鳴る。空気が急に薄くなったように感じる。森の湿った匂い。踏みしめられた土の感触。視界いっぱいに迫る巨大な影。振り下ろされる斧が空気を裂き、耳元で低く唸る。衝撃とともに骨が軋み、内側から割れるような鈍い感覚が蘇る。
映像が濁流のように押し寄せ、現在の光景を塗り潰していく。
「落ち着け」
シャムロックの声が届いた。低く、抑揚の少ない声だった。だがその静けさが、逆に現実との乖離を際立たせる。
「あいつは死んだ。俺たちが倒した」
「……本当に?」
自分でも驚くほど弱い声が出た。返答は言葉ではなく、短い頷きだった。それでも、胸の奥のざわつきは消えない。むしろ、じわじわと広がっていく。
「でも……」
「何が気になる?」
「なぜアイツがこの国にいる……追ってこれるわけがない……なのに、どうして……」
言葉を重ねるごとに、血の気が引いていく。指先が冷え、掌の感覚が曖昧になる。安全だと信じていた距離が、足元から崩れていく。
「まさか、ヴェルンハイトが」
「ヴェルンハイト? 誰だ?」
「ノースフォートの、ヴェルンハイト侯爵……俺を……追っている……」
喉の奥から無理やり絞り出すように告げた。言葉にした瞬間、胸の内側で何かが軋む。シャムロックの眉間に皺が寄るのが見えたが、その表情を追う余裕はない。
「ノースフォート? 海の向こうだろ。ずいぶん遠いな」
「だから安全だと思っていたのに……ベオルンが来たってことは……あの男が……俺の居場所を……!」
思考が同じところを回り続ける。止めようとしても止まらない。呼吸が浅くなり、胸が上下するたびに空気が足りない感覚が強まる。視界の端が暗く滲み始める。
「落ち着け、過呼吸だ」
肩を掴まれた。熱い掌の圧力が現実に引き戻そうとする。しかし、それを振り切るように記憶が溢れ出す。
地下の湿った空気。鉄格子に触れたときの冷たさ。乾ききらない血の匂いが鼻腔にこびりつく。肌を裂く刃の感触が、遅れて熱を伴って蘇る。
「俺は……また、あの場所に……」
言葉が途切れた。視界が急速に狭まり、音が遠ざかる。自分の呼吸音だけが耳の奥で不規則に反響する。
意識が闇へと引きずり込まれる直前、強く名を呼ばれた気がした。しかし、それに応じるだけの力は、もう残っていなかった。




