長い一日の終わり
車輪が石畳を軋ませるたび、乾いた音が夜気にひびいた。エルドンの街門が松明の明かりに浮かび上がり、シャムロックはそこでようやく深く息を吐いた。荷馬車の床板が傷に触れるたび、食いしばった歯の隙間から呻きが漏れる。それでも、命は繋がった。グレンも、きっと助かるはずだ。
御者台のビクトルが振り返り、こちらを窺う。
「申し訳ありません。この状況で聞き取りなど……」
「いや、必要なことだ」
乾いた舌を無理やり動かす。口中に血の味が広がった。
「お疲れでしょうが、襲撃者の詳細をお聞かせいただけますか? 特に……」
ビクトルは荷台へ視線を向けた。そこには大男の遺体が横たえられている。
「その人物について、ご存知のことは?」
「名は知らん」
シャムロックは首を振った。グレンにとっては因縁の相手でも、こちらにとっては、つい数時間前に斬り結んだばかりの剛の者でしかない。
「戦闘中に名乗りもなかった。こちらも必死だったからな」
「そうですか……」
ビクトルは一瞬だけ眉を寄せたが、追及はしなかった。
「では、どのような武装でしたか?」
「大型の斧だ。両手持ちの戦斧だな。何合か打ち合ったが、肩が外れるかと思った」
左肩を覆う布は、すでに血で重くなっている。ビクトルは羊皮紙に筆を走らせながら、小さく息を呑んだ。
「やはり……あの噂の男か」
「噂?」
「『赤熊』ベオルンです。去年あたりから東方領を中心に跳梁していた賞金首でして、北西部に潜伏したとの情報もありました。まさかこんな近くにいたとは……」
シャムロックは黙って聞いていた。グレンにとってはどうしようもなく因縁深い仇敵でも、彼にとっては、ただの強敵でしかない。
「詳しい確認は町に戻ってからにしましょう。手配書には似顔絵も載っていますから」
ビクトルの声には、抑えきれない興奮が混じっていた。懸賞金の額が相当なのだろう。
「ところで……」
彼は荷台を一瞥した。
「そちらの魔術師殿は、容態いかがでしょうか」
「助かればいいがな」
シャムロックは端的に答えた。グレンの生死は、エルドンの治癒師たちに託すしかない。
「我々は全力を尽くします」
その言葉に、シャムロックは小さく頷いた。馬車は石畳を叩く速度を上げ、エルドンの灯りが少しずつ近づいてくる。明日になれば、この巨漢の素性も明らかになるだろう。グレンとシャムロックの間で共有されなかった真相も、白日の下に晒されるはずだった。
夜風が傷口に沁みる。だが、町の灯火は確かに前方にある。生き延びた実感と、まだ終わっていない予感が、同じ重さで胸を占めていた。
◆ ◆ ◆
一行がエルドンの門をくぐったのは、すでに夜が深くなってからだった。冷たい風が篝火を揺らし、石造りの建物の影をいっそう濃くしている。救援隊は街へ入ると同時に二手に分かれた。ゴランと数名の衛兵は役場へ報告に向かい、負傷者と遺体は衛兵詰所内の救護棟へ運び込まれる。
「急げ! 寝台を空けろ!」
救護棟の責任者らしき衛兵が大声を張り上げる。医療班はすでに待機しており、薬瓶や包帯が棚から次々と引っ張り出されていた。看護婦が駆け寄り、グレンの担架を受け取る。
「容態は?」
「右腕と左脚の複雑骨折、腹部打撲、顔面挫傷。意識不明です」
報告を聞いた年嵩の医師が眉をひそめた。
「すぐに処置室へ。切断の危険がある。急患を優先だ」
皆が一斉に動き出す。グレンは厚手の毛布に包まれたまま、奥の処置室へ運ばれていった。シャムロックは壁際に立ち、その背を見送る。
「貴殿も治療を」
ビクトルが声をかける。シャムロックは肩を竦めた。
「後で構わない。先にあいつを確認してほしい」
顎で示した先には、巨大な遺体が横たわっている。血で濡れた鋼鉄の鎧と、隆起した筋肉の輪郭が、松明の光の下で鈍く浮かんでいた。
「承知しました。我々にとっても最重要課題です」
ビクトルは部下を呼び寄せ、「照合班を集めろ」と命じた。手配書と首魁の容姿を突き合わせる班が組まれ、同時に検死官も呼ばれる手筈だという。
「ではシャムロックさん、こちらへ」
別の若い衛兵が彼を促す。詰所内の簡易診療室へ案内され、椅子に腰掛けたところで上着を脱がされると、若い衛兵は短く息を吐いた。
「ひどい裂傷ですね。肩と背中……縫う必要があります」
「頼む」
消毒液の匂いが鼻を刺した。麻酔はない。薬液が肌を冷たく撫でるたび、傷が細かく震えるように痛んだ。歯を食いしばりながら、シャムロックは煤けた天井の梁を見上げる。
「痛み止めがあればいいのですが……」
「構わない。やってくれ」
衛兵は頷き、手際よく処置を進めた。針と糸が肉を通るたび、引き攣るような痛みが走る。それでも、耐えられないほどではない。数十分後、清潔な包帯が巻かれ、最低限の応急処置が終わった。
「安静にしてください。明朝、詳しい話を伺いたい」
「了解した」
礼を述べて立ち上がる。身体はまだふらつくが、意識ははっきりしていた。詰所の隅では、ゴランが憔悴した面持ちでビクトルに問い詰められている。
「つまり貴方は、盗賊との交戦前に現場を離れ、町に救援を求めたわけですね?」
「そ、そうです。商品と従者を守るのが最優先だったので……」
ゴランの声は蚊の鳴くように小さい。ビクトルは険しい顔で腕を組む。
「合理的判断です。ただ、現場の状況についてはもう少し詳しく教えていただきたい」
「は、はい……」
尋問は長引くだろう。シャムロックは咳払いをして近づいた。
「ビクトル殿」
「シャムロック殿。処置は終わりましたか?」
「ああ。明日改めて話を伺うとのことだったな」
「ええ。今晩はここに泊まっていただくか、あるいは近くで宿を手配しますが」
「仮眠室を貸してくれ」
そう答えると、シャムロックは詰所内の一室を借り受けた。兵舎用の粗末な仮眠室には、藁布団一枚と油灯しか置かれていない。窓から見える月は雲間に隠れつつあった。扉越しには診療室の明かりが漏れ、金属器具の触れ合う音や足音が、かすかに届いてくる。
しばらくベッドに腰を下ろしていたが、痛みと疲労でまぶたが重くなった。シャムロックは目を閉じる。眠りに落ちる直前、脳裏をよぎったのは、青褪めたまま動かぬグレンの顔だった。
「死ぬなよ」
呟きは薄い空気に溶けた。次の瞬間には、彼は深い眠りへと引きずり込まれていた。




