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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
銀貨二十枚の護衛

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黎明の余波

 目覚めは唐突だった。シャムロックは息を吸い込み、ゆっくりと上体を起こした。詰所内の灯りは落ち、室内には薄墨を流したような淡い暗さが広がっている。窓枠の隙間から、冷えた黎明の光が細く差し込み、床に淡い線を引いていた。夜の残滓のような冷気が肌に触れる。


「朝か……」


 低く漏れた声は、まだ乾いていた。昨夜の記憶が断片的に浮かび上がる。血の匂いに満ちた街道、巨体が崩れ落ちる鈍い衝撃、倒れ伏したグレンの顔。左肩の傷口が脈を打つように疼き、現実へ引き戻す。不思議と吐き気や眩暈はない。短い眠りでも、疲労は幾分か削がれていた。


「水……」


 立ち上がると、脚の筋肉がきしむように重かった。昨夜縫われたばかりの傷痕が引き攣れ、動きに合わせて鈍い痛みが走る。床板の冷たさが足裏から伝わる。彼は慎重に体重を移しながら、一歩ずつ歩み出した。


 診療室前の廊下は静まり返っていた。薬草と消毒液の匂いが薄く残り、空気はどこか湿っている。昨夜まで慌ただしく動いていたはずの医療スタッフの気配はない。シャムロックはためらわず扉に手をかけ、押し開けた。蝶番が小さく軋む。


「誰だ?」


 低い声が返る。視線の先で、白衣を纏った老齢の治癒師が椅子から立ち上がるところだった。目の下には濃い隈が刻まれ、指先で目頭を押さえている。


「昨日運び込まれた魔術師の具合は?」


 シャムロックの問いに、老人は短く頷き、無言で手招きした。足取りは重く、床を擦るような音がする。


「こちらへ」


 案内されたのは廊下の奥、わずかに奥まった個室だった。扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出る。室内は薄暗く、窓から差す弱い光だけが寝台を照らしている。毛布に包まれた人影が横たわっていた。グレンだった。胸は規則的に上下しているが、顔は腫れ上がり、包帯が幾重にも巻かれている。薬草の匂いが濃く漂っていた。


「右腕と左脚は固定済みだ。内部損傷も可能な限り処置した」


 治癒師は息を吐きながら言葉を続けた。


「一時は危なかったが……なんとか峠は越えた」


 声には疲労が滲んでいる。


「生命の危機は脱したと見ていい」

「そうか」


 シャムロックは短く応じた。その声にはわずかに緊張の抜けた響きが混じっていた。


「完全に回復するまでには時間がかかるだろう。今は休ませてやってくれ」

「感謝する」


 シャムロックは頭を下げた。動きに合わせて肩の傷がわずかに引きつる。再びグレンの顔を一瞥すると、静かに踵を返し、扉を閉じた。


 廊下へ戻ると、壁にもたれるようにビクトルが立っていた。こちらも目の下に隈が濃く、寝ていないことが見て取れる。視線が合うと、挨拶を挟まず口を開いた。


「事情聴取のお時間を頂戴できますか?」

「もちろん」


 シャムロックは即答した。促されるまま歩き、詰所内の会議室へ入る。室内には木製の机が一つ置かれ、その上には手配書の写しが数枚並べられていた。羊皮紙の匂いと、乾いたインクの匂いが混じっている。


「まずは昨夜の経緯を整理させてください」


 ビクトルの問いは簡潔で、無駄がない。襲撃の時刻、場所、敵の人数、そしてベオルンとの交戦内容へと焦点が絞られていく。ペン先が紙を擦る音が一定のリズムで続く。


「斧使いの大男……赤熊ベオルンに間違いありません」


 ビクトルは断言した。照合班が手配書の似顔絵と一致を確認したらしい。報奨金の上乗せも決まったと淡々と告げる。


「賞金首ねえ。道理で」


 シャムロックは頷いたが、視線は机の一点に落ちている。昨夜の光景が脳裏に残っていた。ベオルンの歪んだ憎悪、グレンの反応。両者の間にある何かは明らかだった。しかしそれをここで語る理由はない。


「ところで、例の魔術師殿ですが」


 ビクトルの声がわずかに低くなる。


「なぜ彼があれほど執拗に狙われたのか、ご存知ではありませんか?」


 視線が鋭く向けられる。シャムロックは逸らさず答えた。


「知らん。ただ、奴にとって脅威だったのは俺の剣じゃなく、あいつの魔術だったんだろうよ」


 言葉は平坦だった。事実の一部だけをなぞる形で終える。


「そうですか」


 ビクトルは小さく頷いた。視線にわずかな探りは残るが、それ以上踏み込むことはなかった。話題は別へ移り、室内の空気がわずかに緩む。

 聴取は一時間ほどで終わった。最後にビクトルは姿勢を正した。


「正式な報告書は二日以内にまとめます。何か思い出したことがあればお知らせください。それと、お二人には午前中に治療院へ移っていただきます」

「承知した」


 シャムロックは席を立ち、窓の外へ視線を向けた。薄曇りの空から弱い光が差し、街並みはまだ静まり返っている。遠くで車輪の音がかすかに響く。

 詰所を出ると、朝の空気が頬に触れた。夜の冷えをわずかに残しながらも、湿り気を帯びた匂いが漂っている。昨夜の疲労が身体に残っているにもかかわらず、思考は妙に澄んでいた。

 歩みはゆっくりだった。石畳を踏むたび、靴底越しに硬さが伝わる。肩の傷が一定の拍で疼き続けている。

 顔には出さないが、胸の内には消えない感触があった。昨夜、追い詰められたグレンの姿を目にした瞬間、身体の奥で何かが強く反応していた。焦燥と怒り、それに近い別の衝動。


 シャムロックは足を止めることなく歩き続ける。視線の先に、朝靄の中に沈む街の輪郭がある。

 脳裏に浮かぶのは、青ざめたまま眠るグレンの顔だった。唇がわずかに歪む。笑いとも、別の感情ともつかない微細な変化だった。

後日談に入ります。

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