もう逃げない
「させ、る、かぁ……!」
濁りきった声が喉の奥から絞り出された瞬間、空気が裂けた。次の刹那、細く収束した光線が夕暮れの薄闇を真っ直ぐに切り裂き、ベオルンの左肩を貫通する。肉を焼く焦げた臭いが立ちのぼり、弾けた血が蒸気のように散った。
「ぐおっ!?」
衝撃に巨体が揺らぐ。踏みしめた地面がずれ、鈍い足音が一歩分だけ後退する。
振り返った先にいたのは、立ち上がるはずのない男だった。
グレンは片膝を地に突き、それでもなお上体を起こしている。黒衣は裂け、血と土埃が混じり合って鈍く乾いていた。銀糸の刺繍は泥に沈み、もはや原形を留めていない。折れた杖を左手一本で支え、体重を預けている。その杖が軋み、細い音を立てた。左足は不自然に曲がっている。
それでも、その眼だけは死んでいなかった。
灰青色の瞳が、冷え切った炎のようにベオルンを射抜いている。
「グレン……」
シャムロックの声がわずかに掠れる。地に伏したはずの魔術師が、確かにそこに立っている。身体は今にも崩れそうに見える。それでも、その奥にある何かが、決して折れていないことを示していた。
「あの時の俺じゃない」
低く押し出された声に、怒りと決意と、消え残った屈辱が混じる。脳裏を掠める過去の残滓が、喉奥に苦い味を残す。だが視線は逸れない。
逃げるためではない。並び立つために。
「ベオルン……」
名を呼ぶ声は、刃のように硬い。周囲の空気が微かに震え始める。杖を介さない魔力が、皮膚の上を這うように立ち上がる。淡い燐光が円環を描き、その輪郭が複雑な幾何学へと変質していく。光が重なり、空間そのものが歪むような錯覚を伴う。
「もう逃げない」
その宣言と同時に、魔力が溢れた。圧縮された何かが弾けるような音が響き、大気が軋む。耳鳴りに似た高周波が周囲を満たし、肌に微細な痺れが走る。
「クソがッ!」
ベオルンの顔が歪む。歯を剥き、血の混じった唾を吐き捨てる。完全に折れたはずの相手が、最も嫌な形で立ち上がった。脳裏に焼き付いた過去の失敗が、苛立ちと焦燥を煽る。
同じ轍は踏まない。
「お前なんかに……!」
巨体が地を蹴る。踏み込みが荒い。土が弾け、重心がわずかに前へ流れる。焦りがそのまま動きに滲んでいた。
「遅い」
グレンの瞳孔が開く。視界の奥で光が収束する。空気が軋み、歪み、鳴る。
「行け」
詠唱が解き放たれる。次の瞬間、紫電が奔った。五条の光が蛇のようにうねりながら空間を裂き、ベオルンへと殺到する。空気が焼ける匂いとともに、耳を刺す破裂音が連続する。
二条が斧に弾かれ、火花を散らす。一条が肩当てを融解させ、溶けた金属が滴り落ちる。残る二条が胸部装甲を穿ち、鈍く湿った衝撃音が響いた。
「ぐ、がっ……!」
巨体が仰け反る。肉の裂ける感触が空気に伝播し、血が霧のように散る。それでも足は止まらない。
踏み出す。血が地面に落ち、ぬかるんだ音を立てる。さらに一歩。呼吸が荒く、喉が鳴る。それでも前へ。
濁った眼が、ただ一人を追っている。
「お前だけは……絶対に……この手で……!」
斧を引きずる。金属が地面を擦り、耳障りな音を引き延ばす。足跡の後に、濃い血の線が残る。
「グレン……!」
シャムロックの声が響く。だがグレンは動かない。折れた右腕が力なく垂れ、呼吸は浅く速い。胸が上下するたびに、喉から掠れた音が漏れる。
それでも、視線だけは揺れない。
シャムロックの膝がわずかに沈む。重心が落ちる。剣を逆手に持ち替え、刃先が低く構えられる。呼吸が整えられ、筋肉が静かに緊張する。
一瞬、判断の間が生まれる。
距離。角度。速度。
外せば終わる。
だが、その迷いは次の瞬間には消えていた。
踏み込む。
「これで終わりだ!」
空気が止まったかのような一拍の静寂。直後、地面が弾けた。シャムロックの身体が一直線に走る。風を裂き、視界が流れる。
ベオルンの意識はグレンに向いていた。背後から迫る気配に、反応が遅れる。
刃が吸い込まれる。
鎧の隙間を抜け、肉を裂く鈍い感触。骨に触れ、軋みを伴って押し進む。柄尻を押し込むと、抵抗が割れ、刃が奥へと滑り込んだ。
「がああッ!」
絶叫が空を震わせる。巨体が痙攣し、筋肉が暴れる。目が見開かれ、血走った白目から涙のように血が滲む。
それでも手は斧を離さない。
「許さん……お前だけは……!」
泡立つ血が口から溢れ、言葉が途切れる。シャムロックは無言でさらに力を込めた。刃が肉を押し広げ、温かい血が掌を濡らす。
「逝け」
低い声。剣を引き抜く。瞬間、血が噴き上がる。熱を帯びた飛沫が空気を叩き、地面に散る。
巨体が傾ぐ。
最後に一度だけ、ベオルンの視線がグレンを捉える。そこに宿る狂気は、死の直前まで濁ることがなかった。
やがて力が抜ける。
鈍い音とともに、巨体が地に伏した。振動が地面を伝い、周囲の空気が静まる。
その瞬間まで、執念は消えなかった。




