表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
銀貨二十枚の護衛

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/72

もう逃げない

「させ、る、かぁ……!」


 濁りきった声が喉の奥から絞り出された瞬間、空気が裂けた。次の刹那、細く収束した光線が夕暮れの薄闇を真っ直ぐに切り裂き、ベオルンの左肩を貫通する。肉を焼く焦げた臭いが立ちのぼり、弾けた血が蒸気のように散った。


「ぐおっ!?」


 衝撃に巨体が揺らぐ。踏みしめた地面がずれ、鈍い足音が一歩分だけ後退する。

 振り返った先にいたのは、立ち上がるはずのない男だった。

 グレンは片膝を地に突き、それでもなお上体を起こしている。黒衣は裂け、血と土埃が混じり合って鈍く乾いていた。銀糸の刺繍は泥に沈み、もはや原形を留めていない。折れた杖を左手一本で支え、体重を預けている。その杖が軋み、細い音を立てた。左足は不自然に曲がっている。

 それでも、その眼だけは死んでいなかった。

 灰青色の瞳が、冷え切った炎のようにベオルンを射抜いている。


「グレン……」


 シャムロックの声がわずかに掠れる。地に伏したはずの魔術師が、確かにそこに立っている。身体は今にも崩れそうに見える。それでも、その奥にある何かが、決して折れていないことを示していた。


「あの時の俺じゃない」


 低く押し出された声に、怒りと決意と、消え残った屈辱が混じる。脳裏を掠める過去の残滓が、喉奥に苦い味を残す。だが視線は逸れない。

 逃げるためではない。並び立つために。


「ベオルン……」


 名を呼ぶ声は、刃のように硬い。周囲の空気が微かに震え始める。杖を介さない魔力が、皮膚の上を這うように立ち上がる。淡い燐光が円環を描き、その輪郭が複雑な幾何学へと変質していく。光が重なり、空間そのものが歪むような錯覚を伴う。


「もう逃げない」


 その宣言と同時に、魔力が溢れた。圧縮された何かが弾けるような音が響き、大気が軋む。耳鳴りに似た高周波が周囲を満たし、肌に微細な痺れが走る。


「クソがッ!」


 ベオルンの顔が歪む。歯を剥き、血の混じった唾を吐き捨てる。完全に折れたはずの相手が、最も嫌な形で立ち上がった。脳裏に焼き付いた過去の失敗が、苛立ちと焦燥を煽る。

 同じ轍は踏まない。


「お前なんかに……!」


 巨体が地を蹴る。踏み込みが荒い。土が弾け、重心がわずかに前へ流れる。焦りがそのまま動きに滲んでいた。


「遅い」


 グレンの瞳孔が開く。視界の奥で光が収束する。空気が軋み、歪み、鳴る。


「行け」


 詠唱が解き放たれる。次の瞬間、紫電が奔った。五条の光が蛇のようにうねりながら空間を裂き、ベオルンへと殺到する。空気が焼ける匂いとともに、耳を刺す破裂音が連続する。

 二条が斧に弾かれ、火花を散らす。一条が肩当てを融解させ、溶けた金属が滴り落ちる。残る二条が胸部装甲を穿ち、鈍く湿った衝撃音が響いた。


「ぐ、がっ……!」


 巨体が仰け反る。肉の裂ける感触が空気に伝播し、血が霧のように散る。それでも足は止まらない。

 踏み出す。血が地面に落ち、ぬかるんだ音を立てる。さらに一歩。呼吸が荒く、喉が鳴る。それでも前へ。

 濁った眼が、ただ一人を追っている。


「お前だけは……絶対に……この手で……!」


 斧を引きずる。金属が地面を擦り、耳障りな音を引き延ばす。足跡の後に、濃い血の線が残る。


「グレン……!」


 シャムロックの声が響く。だがグレンは動かない。折れた右腕が力なく垂れ、呼吸は浅く速い。胸が上下するたびに、喉から掠れた音が漏れる。

 それでも、視線だけは揺れない。

 シャムロックの膝がわずかに沈む。重心が落ちる。剣を逆手に持ち替え、刃先が低く構えられる。呼吸が整えられ、筋肉が静かに緊張する。

 一瞬、判断の間が生まれる。

 距離。角度。速度。

 外せば終わる。

 だが、その迷いは次の瞬間には消えていた。

 踏み込む。


「これで終わりだ!」


 空気が止まったかのような一拍の静寂。直後、地面が弾けた。シャムロックの身体が一直線に走る。風を裂き、視界が流れる。

 ベオルンの意識はグレンに向いていた。背後から迫る気配に、反応が遅れる。

 刃が吸い込まれる。

 鎧の隙間を抜け、肉を裂く鈍い感触。骨に触れ、軋みを伴って押し進む。柄尻を押し込むと、抵抗が割れ、刃が奥へと滑り込んだ。


「がああッ!」


 絶叫が空を震わせる。巨体が痙攣し、筋肉が暴れる。目が見開かれ、血走った白目から涙のように血が滲む。

 それでも手は斧を離さない。


「許さん……お前だけは……!」


 泡立つ血が口から溢れ、言葉が途切れる。シャムロックは無言でさらに力を込めた。刃が肉を押し広げ、温かい血が掌を濡らす。


「逝け」


 低い声。剣を引き抜く。瞬間、血が噴き上がる。熱を帯びた飛沫が空気を叩き、地面に散る。

 巨体が傾ぐ。

 最後に一度だけ、ベオルンの視線がグレンを捉える。そこに宿る狂気は、死の直前まで濁ることがなかった。

 やがて力が抜ける。

 鈍い音とともに、巨体が地に伏した。振動が地面を伝い、周囲の空気が静まる。

 その瞬間まで、執念は消えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ