蹂躙
「ベオ……ルン……」
グレンの唇が、意志とは無関係にその名をなぞった。喉の奥で引っかかるような音。胸腔の奥に沈んでいた古傷が、内側から軋みを上げる。四肢が強張り、関節の一つ一つが錆びついたように動かない。
三年前の地下室。刻み込まれた傷が、皮膚の下で蠢き出す錯覚。存在しないはずの痛みが神経を逆撫でる。あの日の恐怖と屈辱が、濁流のように押し寄せ、思考の輪郭を塗り潰していく。
ベオルンは大斧を地面に突き立てた。鈍い衝撃が足裏から伝わる。よろめきながらも、ゆっくりと前へ出る。額から顎へ走る古傷が、夕焼けの残光を受けてぬらりと浮かび上がる。
「グレン……グレン、グレン、グレン!」
声が反響する。狂喜と憎悪が混ざり合い、耳の奥に粘つく。空気が重くなる。見えない圧力が肺を押し潰し、呼吸が浅く途切れる。
「ふ、ハハ……! まさか、こんなところで……海まで超えていたなんてなぁ……」
ベオルンの興奮は収まらない。声に熱が混じり、唾液が飛ぶ。
「どれだけ探したと思う? 国中を探らせ、密偵を雇い、噂があれば駆けつけた! どこへ行っても影も形もなかった! だが今日ここで会えた……運命だ。俺たちの腐りきった因果が、今ここで完結しようとしているんだよ、グレン」
顔が歪む。口角が裂けるように吊り上がる。
「貴様は俺の人生をメチャクチャにした! 貴様さえ逃げなければ俺は! 俺は貴族でいられた! それが! 貴様一人の愚かな逃避行のせいで! 地位も名誉も財産もすべて失って……挙句の果てに犯罪者の烙印を押されて国外逃亡……!」
言葉が飛ぶたびに、空気が刺さる。グレンの心臓が収縮する。肋骨の内側を、見えない刃で抉られるような感覚。
「なにが烙印だ……あんな、無抵抗の子供たちを手にかけて……」
かすれた声は届かない。ベオルンはもはや対話していない。自分の記憶の中で、己を正当化し続けている。語気と共に拳が固く握られる。皮膚の下で血管が膨れ、今にも破裂しそうに脈打つ。
「貴様のせいだ! すべて貴様のせいだ! あの日貴様を逃したために俺の人生は終わった! 絶対に許さん……殺す! いや、殺すだけでは飽き足らん! 二度と立つことさえできぬほど嬲り尽くしてやる!」
怒号とともに、砕けたヘルムの破片が叩きつけられる。鈍い音が地面を伝い、足裏に響く。その振動さえ、拷問の続きのように感じられた。
「ひ……」
喉が引きつる。嗚咽が漏れる。冷や汗が背中を這い、衣服の内側で冷えていく。膝が崩れかける。あの日々が蘇る。絶望の淵。刃が皮膚をなぞる感触。冷たい床。逃げ場のない閉塞。呼吸が浅く速くなり、視界が狭まる。周囲が暗く沈む。杖を握る感覚が消えていく。魔術師としての思考が、霧散する。
重装の巨躯が鈍い足取りで一歩、また一歩と近づく。そのたびに地面が軋み、振動が膝へ伝わる。グレンの呼吸が乱れ、吸うたびに胸が痛む。杖が震え、指が従わない。魔力の微光が指の隙間から零れ、消えかける。
「っ」
声にならない悲鳴が喉に詰まる。逃逃げようとするほど、記憶が絡みつく。冷たい床の感触が、今この瞬間の皮膚に重なる。
「安心しろ」
ベオルンが舌で唇を舐める。湿った音。甘く粘る声が耳にまとわりつく。その奥に鋭い毒が潜む。
「今度は逃がさん。殺してくれと懇願するまでいたぶり尽くしてやる。あの地下室で教えてやった『礼儀作法』を、今度こそ最後まで仕込んでやるよ」
ベオルンの汚濁を帯びた言葉が宙に澱む。グレンの呼吸は引き攣り、視界が不規則に脈打った。
膝が崩れかけた瞬間、シャムロックの声が割り込む。
「離れろ……!」
だが動きが鈍い。脚に力が入っていない。その隙を盗賊たちが突く。
「い、今だ!」
「あの剣士を殺っちまえ!」
六つの影。刃が閃く。四方から迫る。シャムロックが剣を振る。風切り音。だが捌ききれない。左腕に浅い裂傷。熱い血が噴く。それでも眼は死なない。
「邪魔をするな!」
近くの男の腕を掴む。骨が軋み、関節を捻り潰す。悲鳴。奪った剣で牽制する。火花が散り、刃が肉を裂く音が重なる。
「貴様ら如きに……時間をかけてられるか!」
焦燥が滲む。だが進めない。
「どけェ!」
咆哮が響く。
その間にも、ベオルンは悠然とグレンを見下ろしていた。視線には侮蔑と愉悦が入り混じっている。三年の歳月を経ても変わらぬ獰猛な眼光が、グレンの指先を小刻みに震わせた。
「どうした? あの日みたいに泣き喚いてみせろよ。『助けて』『許して』ってな」
嘲笑が鼓膜を灼く。奥歯が軋む。腹の底で何かが蠢く。屈辱か、怒りか、自分でも判別できない熱があった。
「黙れ」
絞り出した声はか細い。それでも、杖の先端がかすかに光る。
「おっと」
ベオルンが眉を上げる。大斧は地面に突き立てたまま。丸腰。しかし隙はない。
「なんだ? まだ逆らう気概があるのか? 面白い。やってみろ」
明らかな挑発だ。しかしグレンの理性は既に沸騰しかけていた。恐怖を越えて噴き出す羞恥と憤怒が、生存本能すら凌駕しようとしている。死んでも負けたくない。ただその一点の思いが、崩れかけた膝に力を与えた。
「この……!」
「ハッ! 魔術師なんざ息さえわかれば紙切れも同然だ」
巨体が一気に沈み込む。踏み込みは重厚にして素早かった。間合いが消える。
「ッ!」
グレンが杖を突き出す暇もない。伸びてきた掌が首筋を鷲掴みにした。鋼鉄のような五指が気管を圧迫し、肺腑から空気が絞り出される。
「ぐ……ッ!」
息ができない。視界が狭まり、耳鳴りが響く。
「こういうのはなぁ」
ベオルンの嘲笑が耳朶を犯す。グレンの身体が吊り上がり、足が宙を蹴る。拳が振りかぶられた。
「まず黙らせるのが礼儀ってもんだ」
拳が風を切る音が聞こえた。次の瞬間、左頬に火が走った。視界が真っ白に弾け、脳が揺さぶられる。世界が回転し、地面の感触が背中に広がった。遅れて鈍い痛みが波紋のように広がっていく。
「ぐ……はッ」
咳き込むたびに口内に鉄の味が広がる。口角から鮮血が滴り落ちた。喉を潰されたのか、声が出ない。杖は手から離れ転がっている。
「おいおい、これで終わりか?」
男が愉快そうに喉を鳴らす。跪き、グレンの前髪を乱暴に掴む。半ば閉じかけた瞼を開くと、巨漢の眼に血塗れた自分の顔が映り込んだ。惨めな姿だ。
「昔はもっと上品に嬲ってやったが」
言葉と同時に拳が頬を抉る。乾いた音と共に脳髄が揺れ、平衡感覚が喪失した。続けざまに腹部へ蹴りが繰り出される。骨が軋み、内臓が悲鳴を上げる。胃液が逆流しかける。
「やめ……ッ!」
声が出ない。
「ハハッ! やっぱり生きてる方が楽しいなぁ!」
快楽を求めるように執拗な暴力が繰り返される。蹴り、踏みつけ、拳打。どれも致命傷を与えぬよう計算されていた。ただ苦しめるためだけの拷問じみた行為。グレンの意識は朦朧とし始めていた。三年前の牢獄が幻聴のように甦る。鎖の音。薬液の匂い。絶叫する自分の声。皮膚の下を蠢く忌まわしい感覚。
「っ……!」
必死に逃れようと藻掻く。だが身体は動かない。ベオルンの足がグレンの右手を踏みつけた。骨の砕ける音が響く。
「あぁっ……!」
悲鳴が漏れる。それを聞いたベオルンの口角が更に吊り上がった。
「いい声だ」
満足げに呟き、再度拳を握り締める。
「そこまでだ」
凛とした声が割って入った。ベオルンの動きが止まる。顔を上げると、血塗れのシャムロックが立っていた。全身に新たな傷を負いながらも、黄金の瞳は冷たく静かに燃えている。周囲には盗賊の骸。
「おいおい……」
ベオルンが眉を顰める。周囲を見渡し、生きている配下がいないことを確認すると、興醒めしたように溜息をついた。
「今いいところなんだ。邪魔すんじゃねぇよ」
低く唸るような声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいる。
「悪いが時間切れだ」
シャムロックの声は怒りに染まっていた。一歩、また一歩と近づくにつれ、その威圧感が増していく。血と泥に塗れた顔の中で、双眸だけが研ぎ澄まされた鋼のように鋭く光っている。
「そいつを返せ」




