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天元魔術師と白詰草 ~孤独な最底辺魔術師、訳あり無気力剣士と大森林の異変に挑む~  作者: 藍川葵
銀貨二十枚の護衛

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蹂躙

「ベオ……ルン……」


 グレンの唇が、意志とは無関係にその名をなぞった。喉の奥で引っかかるような音。胸腔の奥に沈んでいた古傷が、内側から軋みを上げる。四肢が強張り、関節の一つ一つが錆びついたように動かない。

 三年前の地下室。刻み込まれた傷が、皮膚の下で蠢き出す錯覚。存在しないはずの痛みが神経を逆撫でる。あの日の恐怖と屈辱が、濁流のように押し寄せ、思考の輪郭を塗り潰していく。


 ベオルンは大斧を地面に突き立てた。鈍い衝撃が足裏から伝わる。よろめきながらも、ゆっくりと前へ出る。額から顎へ走る古傷が、夕焼けの残光を受けてぬらりと浮かび上がる。


「グレン……グレン、グレン、グレン!」


 声が反響する。狂喜と憎悪が混ざり合い、耳の奥に粘つく。空気が重くなる。見えない圧力が肺を押し潰し、呼吸が浅く途切れる。


「ふ、ハハ……! まさか、こんなところで……海まで超えていたなんてなぁ……」


 ベオルンの興奮は収まらない。声に熱が混じり、唾液が飛ぶ。


「どれだけ探したと思う? 国中を探らせ、密偵を雇い、噂があれば駆けつけた! どこへ行っても影も形もなかった! だが今日ここで会えた……運命だ。俺たちの腐りきった因果が、今ここで完結しようとしているんだよ、グレン」


 顔が歪む。口角が裂けるように吊り上がる。


「貴様は俺の人生をメチャクチャにした! 貴様さえ逃げなければ俺は! 俺は貴族でいられた! それが! 貴様一人の愚かな逃避行のせいで! 地位も名誉も財産もすべて失って……挙句の果てに犯罪者の烙印を押されて国外逃亡……!」


 言葉が飛ぶたびに、空気が刺さる。グレンの心臓が収縮する。肋骨の内側を、見えない刃で抉られるような感覚。


「なにが烙印だ……あんな、無抵抗の子供たちを手にかけて……」


 かすれた声は届かない。ベオルンはもはや対話していない。自分の記憶の中で、己を正当化し続けている。語気と共に拳が固く握られる。皮膚の下で血管が膨れ、今にも破裂しそうに脈打つ。


「貴様のせいだ! すべて貴様のせいだ! あの日貴様を逃したために俺の人生は終わった! 絶対に許さん……殺す! いや、殺すだけでは飽き足らん! 二度と立つことさえできぬほど嬲り尽くしてやる!」


 怒号とともに、砕けたヘルムの破片が叩きつけられる。鈍い音が地面を伝い、足裏に響く。その振動さえ、拷問の続きのように感じられた。


「ひ……」


 喉が引きつる。嗚咽が漏れる。冷や汗が背中を這い、衣服の内側で冷えていく。膝が崩れかける。あの日々が蘇る。絶望の淵。刃が皮膚をなぞる感触。冷たい床。逃げ場のない閉塞。呼吸が浅く速くなり、視界が狭まる。周囲が暗く沈む。杖を握る感覚が消えていく。魔術師としての思考が、霧散する。


 重装の巨躯が鈍い足取りで一歩、また一歩と近づく。そのたびに地面が軋み、振動が膝へ伝わる。グレンの呼吸が乱れ、吸うたびに胸が痛む。杖が震え、指が従わない。魔力の微光が指の隙間から零れ、消えかける。


「っ」


 声にならない悲鳴が喉に詰まる。逃逃げようとするほど、記憶が絡みつく。冷たい床の感触が、今この瞬間の皮膚に重なる。


「安心しろ」


 ベオルンが舌で唇を舐める。湿った音。甘く粘る声が耳にまとわりつく。その奥に鋭い毒が潜む。


「今度は逃がさん。殺してくれと懇願するまでいたぶり尽くしてやる。あの地下室で教えてやった『礼儀作法』を、今度こそ最後まで仕込んでやるよ」


 ベオルンの汚濁を帯びた言葉が宙に澱む。グレンの呼吸は引き攣り、視界が不規則に脈打った。

 膝が崩れかけた瞬間、シャムロックの声が割り込む。


「離れろ……!」


 だが動きが鈍い。脚に力が入っていない。その隙を盗賊たちが突く。


「い、今だ!」

「あの剣士を殺っちまえ!」


 六つの影。刃が閃く。四方から迫る。シャムロックが剣を振る。風切り音。だが捌ききれない。左腕に浅い裂傷。熱い血が噴く。それでも眼は死なない。


「邪魔をするな!」


 近くの男の腕を掴む。骨が軋み、関節を捻り潰す。悲鳴。奪った剣で牽制する。火花が散り、刃が肉を裂く音が重なる。


「貴様ら如きに……時間をかけてられるか!」


 焦燥が滲む。だが進めない。


「どけェ!」


 咆哮が響く。

 その間にも、ベオルンは悠然とグレンを見下ろしていた。視線には侮蔑と愉悦が入り混じっている。三年の歳月を経ても変わらぬ獰猛な眼光が、グレンの指先を小刻みに震わせた。


「どうした? あの日みたいに泣き喚いてみせろよ。『助けて』『許して』ってな」


 嘲笑が鼓膜を灼く。奥歯が軋む。腹の底で何かが蠢く。屈辱か、怒りか、自分でも判別できない熱があった。


「黙れ」


 絞り出した声はか細い。それでも、杖の先端がかすかに光る。


「おっと」


 ベオルンが眉を上げる。大斧は地面に突き立てたまま。丸腰。しかし隙はない。


「なんだ? まだ逆らう気概があるのか? 面白い。やってみろ」


 明らかな挑発だ。しかしグレンの理性は既に沸騰しかけていた。恐怖を越えて噴き出す羞恥と憤怒が、生存本能すら凌駕しようとしている。死んでも負けたくない。ただその一点の思いが、崩れかけた膝に力を与えた。


「この……!」

「ハッ! 魔術師なんざ息さえわかれば紙切れも同然だ」


 巨体が一気に沈み込む。踏み込みは重厚にして素早かった。間合いが消える。


「ッ!」


 グレンが杖を突き出す暇もない。伸びてきた掌が首筋を鷲掴みにした。鋼鉄のような五指が気管を圧迫し、肺腑から空気が絞り出される。


「ぐ……ッ!」


 息ができない。視界が狭まり、耳鳴りが響く。


「こういうのはなぁ」


 ベオルンの嘲笑が耳朶を犯す。グレンの身体が吊り上がり、足が宙を蹴る。拳が振りかぶられた。


「まず黙らせるのが礼儀ってもんだ」


 拳が風を切る音が聞こえた。次の瞬間、左頬に火が走った。視界が真っ白に弾け、脳が揺さぶられる。世界が回転し、地面の感触が背中に広がった。遅れて鈍い痛みが波紋のように広がっていく。


「ぐ……はッ」


 咳き込むたびに口内に鉄の味が広がる。口角から鮮血が滴り落ちた。喉を潰されたのか、声が出ない。杖は手から離れ転がっている。


「おいおい、これで終わりか?」


 男が愉快そうに喉を鳴らす。跪き、グレンの前髪を乱暴に掴む。半ば閉じかけた瞼を開くと、巨漢の眼に血塗れた自分の顔が映り込んだ。惨めな姿だ。


「昔はもっと上品に嬲ってやったが」


 言葉と同時に拳が頬を抉る。乾いた音と共に脳髄が揺れ、平衡感覚が喪失した。続けざまに腹部へ蹴りが繰り出される。骨が軋み、内臓が悲鳴を上げる。胃液が逆流しかける。


「やめ……ッ!」


 声が出ない。


「ハハッ! やっぱり生きてる方が楽しいなぁ!」


 快楽を求めるように執拗な暴力が繰り返される。蹴り、踏みつけ、拳打。どれも致命傷を与えぬよう計算されていた。ただ苦しめるためだけの拷問じみた行為。グレンの意識は朦朧とし始めていた。三年前の牢獄が幻聴のように甦る。鎖の音。薬液の匂い。絶叫する自分の声。皮膚の下を蠢く忌まわしい感覚。


「っ……!」


 必死に逃れようと藻掻く。だが身体は動かない。ベオルンの足がグレンの右手を踏みつけた。骨の砕ける音が響く。


「あぁっ……!」


 悲鳴が漏れる。それを聞いたベオルンの口角が更に吊り上がった。


「いい声だ」


 満足げに呟き、再度拳を握り締める。


「そこまでだ」


 凛とした声が割って入った。ベオルンの動きが止まる。顔を上げると、血塗れのシャムロックが立っていた。全身に新たな傷を負いながらも、黄金の瞳は冷たく静かに燃えている。周囲には盗賊の骸。


「おいおい……」


 ベオルンが眉を顰める。周囲を見渡し、生きている配下がいないことを確認すると、興醒めしたように溜息をついた。


「今いいところなんだ。邪魔すんじゃねぇよ」


 低く唸るような声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいる。


「悪いが時間切れだ」


 シャムロックの声は怒りに染まっていた。一歩、また一歩と近づくにつれ、その威圧感が増していく。血と泥に塗れた顔の中で、双眸だけが研ぎ澄まされた鋼のように鋭く光っている。


「そいつを返せ」

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