フルヘルムの男
砂塵がゆっくりと剥がれるように薄れていく。乾いた空気の中に、地を叩き割るような重い蹄の衝撃が、腹の奥まで響いてきた。金属が擦れ合う軋みが耳の奥に刺さり、荒い馬の吐息が熱と獣臭を帯びて流れ込む。
姿を現したそれは、明らかに他の盗賊とは異質の存在だった。鈍色の重装鎧が夕光を鈍く弾き、両手で扱うはずの大斧を肩に無造作に担いでいる。煤と乾いた血の匂いが風に乗り、鎧板に刻まれた無数の傷がざらついた光を返した。幾度も死線を潜り抜けてきた痕跡が、視覚だけでなく空気そのものを軋ませる。それは熟練した戦士の終着点のようであり、あるいは地獄の底から這い出してきた異形の気配をまとっていた。
「下がれぇ! テメェらァ!」
腹の底から吐き出された咆哮が、乾いた空気を震わせる。音というより圧力だった。鼓膜だけでなく、肺と心臓を内側から殴りつけるような衝撃。周囲の盗賊たちが弾かれるように後退し、砂を蹴り上げて散っていく。その声には怒りだけではない、腐りきったものが滲み出るような、粘つく怨念が混じっていた。
グレンの背骨に冷たいものが這い上がる。皮膚の内側から粟立つような悪寒。喉がわずかに詰まり、呼吸が浅くなる。
「只者じゃない。油断するな」
シャムロックの声が低く落ちた。普段よりも硬く、研ぎ澄まされている。剣を握る腕の筋肉がわずかに軋み、重心が沈む。足裏が砂を噛み、いつでも踏み込める体勢を保ちながら、距離だけは絶対に崩さない。琥珀の眼が瞬きもせず敵を射抜き、呼吸さえも最小限に抑え込んでいた。
馬上の男が鼻を鳴らす。フルヘルムの奥から、濁った声が漏れ出る。
「オイオイ。こんなガキ共に可愛い手下どもが遊ばれてたってのか? 笑わせてくれるぜ」
耳にまとわりつく声だった。湿った布で鼓膜を撫でられるような、不快な残響。それでいて、どこか記憶の底を掻き回す。心臓が強く跳ねた。胃の奥がぎゅっと縮む。冷や汗が背中を伝い、衣服の内側で冷えていく。
聞き覚えがある。だが思い出せない。思い出したくない。
喉元まで何かがせり上がり、グレンはそれを力任せに押し戻した。杖を握る手に力を込める。しかし指先は制御を拒むように震え、小さく痙攣していた。
「さあ、狩りの時間だ」
宣告と同時に、巨体が跳んだ。
空気が裂ける。重装の質量を無視した跳躍。黒曜石の塊が黄昏を断ち切り、風圧が顔面を打つ。砂塵が巻き上がり、乾いた粒子が頬と唇を叩いた。歯の間に砂が軋む。
グレンの視界は捉えていた。一直線に、自分へ落ちてくる影。
「ッ!」
思考が追いつく前に身体が動いた。半身を捻り、杖を振る。体内の魔力を強引に引きずり上げ、血管を焼くような熱とともに循環させる。即席の紫電障壁が展開される。
間に合う。
接触の寸前、閃光が網膜を焼いた。白と紫が弾け、空気が爆ぜる。衝撃波が全身を叩き、内臓が揺れる。
だが。
「ぬるいわァ!」
哄笑が響く。大斧が障壁に食い込み、削り取る。金属と雷が擦れ合い、耳障りな高音が頭蓋に響く。火花が散り、熱が頬を焼く。障壁が軋む。あと一撃で崩壊する。
死が、すぐそこにある。
(……あれは……違う、思い出すな……!)
視界の奥に、別の光景が滲む。暗い地下。湿った石の匂い。鉄枷が擦れる鈍い音。皮膚に食い込む冷たさ。痛み。息が詰まる。逃げ場がない。
現実と記憶が重なる。
身体が固まる。指が動かない。震えが止まらない。そのときだった。
「させるかぁッ!」
衝撃が割り込んだ。
シャムロックが飛び込む。獣のような眼光。全身の筋肉を叩きつけるように、大斧を受け止める。金属がぶつかり、火花が散る。衝突の振動が地面を通じて足裏に伝わる。
足が沈む。砂が崩れる。だが踏みとどまる。
「ほう……? 小僧、なかなかやるな」
愉悦の混じった声。大斧がさらに押し込まれる。シャムロックの腕が軋み、血管が浮き上がる。
「……っぐ……!」
歯を噛み締める音が漏れる。剣を逆手に切り替え、軌道をずらす。大斧が肩を掠め、革鎧が裂ける感触。温かい血がにじみ、空気に鉄の匂いが混じる。鮮やかな紅が走ったが、構わず身体をひねって距離を取った。額には冷や汗が玉となって浮かんでいた。
「無事か!」
声が飛ぶ。焦りが混じっている。グレンは動けない。震えが止まらない。自分の身体が、自分の命令を拒否している。まるで自分の身体ではないかのように制御できない。
「……問題ない」
絞り出すように返事をするが、声は上擦っている。視界の端で剣戟が続く。衝突音が断続的に響き、火花が闇に散る。だが刃は通らない。鈍い打撃音だけが返る。
「クソッ……硬すぎるし隙がない!」
シャムロックが苛立ちを隠さずに吠える。彼の太刀筋は冴えわたっているはずなのに、敵の重装甲は容易にそれを弾き返してしまう。首領は余裕綽々といった様子で嗤っていた。
「おい!」
距離を取ったシャムロックの短い呼びかけに、意識が引き戻される。そうだ。自分には自分の役割がある。震える指を叱咤し、杖を高く掲げた。
「分かってる」
視界が収束する。灰青色の瞳が敵を測る。剣が通らないなら、答えは一つだ。
「剣撃は通じない。俺が仕留める」
「……任せたぞ」
その短い承諾には万の言葉にも勝る信頼が込められていた。
「俺が時間を稼ぐ。お前は全力で集中しろ」
「……俺に指図するな」
強がることでしか平静を保てなかった。杖を握り直す。指先の震えはまだ治まらない。それでも意識を統一し、魔力の奔流を高めていく。
フルヘルムの奥から再びあの声が響いた。先ほどよりも愉悦を多分に含んだ、心底から楽しんでいるような声。
「ハッ! 面白いじゃねぇか! 雑魚二匹で何ができる!」
その言葉がグレンの心をざわつかせる。あの声。過去の出来事が蘇る。忘れたくても忘れられない記憶。鎖の音。閉ざされた扉。泣き叫ぶ声。逃げ場のない闇。
違う。
今はそんなことを思い出している場合ではない。目の前の敵に集中しろ。グレンは頭を強く振って幻影を振り払おうとした。その瞬間。
「来るぞ!」
シャムロックの鋭い警告が飛んだ。反射的に顔を上げると、敵の巨体が大斧を振りかぶるのが見えた。茜空を切り裂くような風圧が伝わってくる。間違いなく全力の一撃だ。
「うおおッ!」
シャムロックが吶喊する。大斧と剣が真正面から激突した。




