斥候
午後の街道は、妙に静かだった。
朝のうちはすれ違う隊商も何組かあった。だが昼を過ぎてから、人の気配が途切れている。
街道が大森林の裾野に沿って曲がり込む区間に入ったあたりからだ。左手に森が迫り、右手は低い丘陵が視界を遮る。見通しが悪い。
隊商が速度を落とす地形でもあった。
朝発の隊商はとうに宿場町に着いている。午後発の便はまだここまで来ていない。交通量が最も薄くなる時間帯だった。
緩やかな登り坂に差し掛かったゴラン隊商は、足取りを緩め、昼食の支度に取りかかっている。
乾いた土の匂いに、煮立ち始めた豆と干し肉の濃い香りが混ざった。エレナは大鍋にそれらを豪快に放り込み、木杓子でかき混ぜるたび、脂の膜がきらりと光を弾いた。
従者の一人はしゃがみ込んで蹄鉄の具合を確かめ、鉄と石が触れ合う硬い音を響かせる。もう一人は簡易テントの柱を打ち込み、鈍い衝撃が地面を伝ってくる。
隊商主のゴランは木箱に腰を落とし、帳簿に顔を寄せたまま唇を湿らせるように舐め、「この調子なら儲けが出るか……」と低く呟いた。
どの動きも、風のない午後のように緩やかで、安穏としている。
最初に異変を嗅ぎ取ったのはグレンだった。街道脇の草地が、風もないのにざわりと揺れた。乾いた葉が擦れる微かな音が耳に刺さる。灰青色の瞳が針のように細まり、指先に冷たい緊張が走る。無意識に杖を握りしめ、掌に木のざらついた感触を確かめた。
「……おい」
苛立ちと警戒が半ばした声だった。焚き火の前に腰を下ろしていたシャムロックが、煙に目を細めながらゆっくりと瞼を上げる。干し肉の焼ける香ばしい匂いの向こうで、陽光を映した眼に獣じみた鋭さが宿った。
「来たか」
短い呟きと同時に立ち上がる。踵が砂利を踏みしめ、乾いた粒が弾ける音が足元で小さく跳ねた。
その瞬間、空気を裂く鋭い風切り音が頭上を横切った。ほぼ同時に数本の矢が隊商めがけて降り注ぐ。だがグレンが展開した魔力障壁が、甲高い衝突音とともにそれらを弾き返した。火花にも似た光が一瞬、視界に散る。それを合図に、鬱蒼とした木立の陰から三つの影が躍り出た。襤褸衣の擦れるざらついた音、汗と土にまみれた匂い。頭に巻いた粗末な布が風に揺れる。盗賊だった。先頭に立つ痩せた男が、錆びた短剣を掲げ、喉を震わせて吠える。
「全員動くな! 荷物と金を――」
「ほざけ!」
グレンの詠唱は息を継ぐ暇もなく滑り出た。杖の先に渦巻く紅蓮の光が熱を帯び、次の瞬間には一条の火線となって男の胸板に突き刺さる。焦げた肉の匂いが一気に広がり、悲鳴を上げる暇もなく、男の身体は炭化して崩れ落ちた。膝が砕ける鈍い音が耳に残る。
「ヒィッ!?」
残りの二人が恐怖に目を見開いた。その一瞬の硬直を、シャムロックは見逃さない。砂塵を巻き上げて疾走し、風を裂く刃が視界を横切る。正面の盗賊が構えた粗造りの短槍ごと斬り裂いた。赤黒い飛沫が陽光を受けて散る。鉄の匂いが鼻を刺した。踏み込みは止まらず、そのまま三人目の喉元へ切っ先を突き立てる。骨が砕ける湿った音が、静まり返った空気に重く響いた。
(これで全員か?)
グレンが周囲に意識を巡らせた刹那、林の奥から枯れ枝を踏み抜く軽い音が届いた。四人目だった。小柄な影が木々の間をすり抜け、逃げようとしている。シャムロックの眼が戦慄を帯び、鋭く細められる。
「あいつ――!」
警告が声になるより早く、グレンの杖が空を切った。
「逃がすか!」
放たれた紫電が空気を焼き、一直線に標的を追う。だが、疾走する男の目前に立つ老木がそれを受け止めた。樹皮が弾け、煙が上がる。直撃を免れた影は、そのまま茂みの奥へと消えた。
「チッ!」
グレンの舌打ちが乾いた音を残す。シャムロックも表情を厳しくする。
逃げた影は斥候のはずだ。この情報が本隊に届けば、状況は一気に悪化する。
「まずいな」
低い声に、焦燥が滲んでいた。グレンの胸にも冷たいものが落ちる。もし相手が想定通り盗賊団なら、数十人規模も考えられる。再編して襲われれば、多勢に無勢で押し潰される。
「ゴラン!」
シャムロックの声が強く響いた。戦闘が始まるや否や馬車の陰に潜り込んでいたゴランが、青ざめた顔をのぞかせる。
「な、なんだ!?」
「すぐに発つ! 急げ!」
切迫した声に、ゴランの喉がひくりと鳴った。エレナは慌てて大鍋を持ち上げ、煮汁が揺れて熱い蒸気を立てる。従者たちは手綱を強く引き、革の軋む音を響かせながら荷馬車に飛び乗った。グレンは杖を握り、肌にまとわりつく緊張を振り払うようにシャムロックの隣に立つ。
「追いつかれたら終わりだ」
「ああ。今はとにかく距離を稼ぐしかない」
シャムロックの声は平静だったが、左手は鞘の柄を固く握り、指先が白くなる。グレンは唾を飲み込み、乾いた喉に痛みを覚えながら前方の街道を睨んだ。背後から、風とは違う低い唸りが迫る。気配が、確かに追ってくる。
轍が小石を噛み砕くたび、年季の入った荷馬車は軋み、甲高い悲鳴のような音を上げた。
幌の上で風を切るグレンの頬に、乾いた空気が鞭のように当たる。彼は背筋を伸ばし、後方に霞む地平線を見据えた。低く垂れ込める雲が空を押し潰し、今にも雨の匂いを落としそうだった。
積み荷の重さが足枷となり、隊列は重く、鈍く、まるで陸に上がった獣のように進みが遅い。
御者台ではゴランが必死に手綱を操り、汗が額から滴り落ちている。隣のシャムロックは剣を抱え込むようにして、前方を射抜くように見据えている。
「あ、あんたたちなら……勝てるんじゃないか……?」
震えた声だった。歯の根が合わず、かすかな音を立てている。
「無茶言うな」
グレンは振り向きもせずに吐き捨てる。声には苛立ちと、逃れようのない現実が混じっていた。
「あいつが伝令なら、後ろに控えてるのは本隊だ。十や二十なんて生易しいもんじゃない」
「で、でも……あんたたちは凄腕じゃないか。今までだって……」
言葉はすがるように細くなる。だがグレンは冷ややかに鼻を鳴らした。
「あんたたちを守りながら、それだけの数を相手にするのは不可能だ。単純な数の論理さ」
しばし、車輪の乾いた回転音だけが続く。ゴランの喉が上下し、息が荒くなる。
「なら……ど、どうすればいいんだ……?」
追い詰められた声に応じたのはシャムロックだった。低く、揺るがない声で答える。その眼は眠たげな色を失い、冷たい刃のように研ぎ澄まされている。
「いざとなれば、俺たちが時間を稼ぐ。その間に街へ逃げ込め。それが一番賢明だ」
「時間稼ぎって……まさか、あんたたちだけが残るつもりじゃ――」
ゴランの顔からさらに血の気が引き、唇が青白く震えた。
「心配するな」
シャムロックはわずかに口角を上げる。そこにあるのは軽さではなく、動かしがたい意思だった。
「そう簡単にやられるほどヤワじゃない」
その言葉を聞きながら、グレンは視界の端で彼の横顔を盗み見る。普段は掴みどころのない剣士の瞳の奥に、言葉にしない覚悟が沈んでいる。グレンは無意識に杖を握る手に力を込めた。革手袋が擦れ合い、小さな音が自分の耳にだけ届いた。




