蟲の夢、白い夜
実験は加速していった。痛みも恐怖も、慣れる前に次の段階へと押し上げられる。
ヴェルンハイトが持ち出したのは、魔蟲と呼ばれる極小の生物だった。
「これを埋め込めば、魔力容量は数倍になるはずだ」
薄いガラス瓶の中で、黒い点がゆっくりと蠢いていた。液体の中を漂いながら、時折、内側から叩くように壁へ触れる。そのたびに、かすかな音がした。湿った何かが擦れるような音だった。蓋が開けられた瞬間、鉄のような匂いが鼻を刺した。
埋め込まれた少年少女は、次々に命を落とした。悲鳴は長く続かない。途中で途切れ、代わりに喉の奥で潰れる音が残る。
生き残ったのは、グレンだけだった。
「やはり君は特別だ」
ヴェルンハイトが笑う。
その声は、興味深い標本を前にした研究者のそれだった。
胸の奥で魔蟲が脈動していた。鼓動とは異なる、異物のリズム。内側から壁を叩き、押し広げ、位置を変える。
腹膜の裏側を、何かが這いずる。爪のない指で内臓をなぞられるような不快感が、じわじわと広がる。
次の瞬間、激痛が弾けた。
全身の血管に、沸騰した鉛を流し込まれたかのような熱が走る。皮膚の下で何かが膨れ上がり、内側から破裂しそうになる。喉が焼け、肺が縮む。叫ぼうとしても、声は形にならない。歯の隙間から、掠れた息だけが漏れる。
それでも死ねなかった。
死ねないことが、何よりも恐ろしかった。
ある夜、屋敷の獣が酒に潰れた隙を突いて逃げ出した。足音を殺し、息を押し殺し、暗い廊下を駆ける。
追い詰められたのは、崖の上だった。風が強く、冷たい空気が肺に刺さる。
捕まれば、また地下に戻される。
古い文献に記された禁術が、脳裏に浮かんだ。
次元を跳躍する術。失敗すれば、肉体は崩壊する。
「捕まるくらいなら——」
術式を組み上げた瞬間、世界が歪んだ。
空間が捩じれ、輪郭が崩れる。
色彩が溶け、境界が失われる。
上下も前後も分からなくなり、感覚が裏返る。
すべてが白に塗り潰されていく。
最後に感じたのは、内側から食い破ろうとする魔蟲の熱だった。
◆ ◆ ◆
冷たい感触が皮膚に触れた瞬間、目が開いた。
視界は暗く、天井の輪郭が揺れている。焦点が合わないまま、影だけが滲む。
喉がひくりと鳴る。息を吸い込もうとして、空気が胸まで届かない。思わず上体を起こす。肺が浅く震え、呼吸が細かく途切れる。心臓が耳の奥で叩きつけるように鳴っていた。
(……逃げ……)
脳裏に浮かびかけた言葉を、慌てて噛み殺す。
視線が無意識に胸元へ落ちる。
指が服越しにそこを押さえた。
皮膚の下で、何かが蠢いた気がした。錯覚だと分かっていても、背筋が粟立つ。
耳の奥で、ざわりと音がした。
蟲同士が擦れ合うような、低く湿った蠕動音。
「……っ」
反射的に耳を塞ぎかけ、寸前で止める。
指先が震えていた。
拳を握り締める。爪が掌に食い込み、鋭い痛みが現実を引き戻す。
何もいない。
ここは地下でも、森でも、崖際でもない。
冷たいシーツが肌に触れている。硬い寝台の軋み。
宿特有の埃と乾いた木の匂い。
(……夢)
そう結論づけるまでに、数拍かかった。
安堵はすぐには訪れない。
代わりに胸に広がったのは、鈍い恐怖だった。
そっと、隣のベッドへ視線を移す。
シャムロックは背を向けたまま、静かな寝息を立てていた。
規則的に上下する背中。
一定の間隔で繰り返される呼吸音。
グレンはそれを、無意識に数えていた。
一つ、二つと、確かめるように。
(……よかった)
胸の奥で、ようやく何かが緩む。
手を伸ばせば触れられる距離に他人がいる。その事実だけで、現実に繋ぎ止められている。
だが、手を伸ばすことはしなかった。
起こしてしまったら、何と言えばいいのか分からない。
グレンはゆっくりと横になり、目を閉じた。
まぶたの裏に、赤黒い残像がまだ焼き付いている。
それを意識の底へ押し沈めるように、深く息を吸い、吐く。
過去のことなど、話せるわけがない。
だから明日も、何でもない顔をする。
五日目。旅路最後の一日が始まります。




