広場の魔術師
セルディアに向かって四日目。
朝の冷えがまだ地面に残るうちに「銀の鹿亭」を発ち、隊商は再び街道へ出た。
午後、街道が広くなり始めた。
踏み固められていた土に石が混じり、やがて轍が幾筋も刻まれているのが見える。すれ違う馬車の数が増え、馬の息と革の軋む音が途切れなく続く。
やがて、石造りの屋根が重なり合う影が見え始めた。風に乗って、人のざわめきと荷車の軋みが一つの塊となって流れてくる。乾いた街道の匂いに、煙と油の気配が混ざった。
昨日までの宿場町とは規模が違う。
夕刻にもかかわらず、人の流れは途切れない。広場に足を踏み入れた瞬間、熱気が肌にまとわりついた。屋台が軒を連ね、炭火の上で肉が焼ける。脂が弾ける音が耳に跳ね、香辛料の刺激的な匂いが鼻を刺す。甘い菓子の匂いがそれに絡みつき、空腹を無理やり引きずり出してくる。
活気という言葉がよく似合う町だった。
ゴランは到着早々、積荷の確認と明日の行程を詰めるため、宿の奥へ消えていった。
護衛の出番は、ひとまず途切れている。
広場中央の噴水の縁に腰を下ろし、グレンは行き交う人々をぼんやりと眺めていた。水音が規則的に耳に届き、冷たい飛沫がわずかに頬にかかる。
金がない。やることもない。
魔道具店の看板が視界の隅で揺れる。磨かれた金属の反射が、やけに眩しく感じられた。冷やかすだけでも惨めな気分になるので、視線を逸らす。
指先で石の縁をなぞる。ざらついた感触と冷えだけが、現実を繋ぎ止めていた。
そのとき、広場の隅で声が上がった。
「だから関係ないだろ! 俺はただ通りかかっただけだ!」
若い男の声だった。ざわめきの中でも、棘のある響きだけが浮き上がる。
視線を向けると、露店の前で揉め事が起きていた。
二十歳前後の痩せた男が、露店の主人と客の男に詰め寄られている。男の腰には小さな杖が差してあった。
魔術師だ。
「昨日からうちの品が減ってんだよ。お前みたいなのが通るたびにな」
「みたいなの、って何だよ」
「魔術師だろ。手も触れずに物を盗れるんだろうが」
露店主の声には確信があった。
根拠は見えないのに、断定だけが硬く残っている。
客の男が腕を組み、ゆっくり頷く。
「この辺じゃ最近そういう話が多いんだ。魔術師が通ると品物がなくなるってな」
「知らねえよそんなの! 濡れ衣だ!」
若い魔術師が声を荒げる。だが周囲の人間は、わずかに距離を取るばかりで、誰も口を挟まない。視線だけが集まり、音のない壁のように取り囲む。
露店主が若い魔術師の胸を押した。布越しに鈍い音が響き、男の体が後ろに崩れる。背が木箱にぶつかり、積まれていた果物が崩れ落ちた。硬いものが石畳に当たる乾いた音と、潰れる柔らかな音が混ざる。
「ほら見ろ! 品物を台無しにしやがって!」
自分で押しただろうが。
グレンの奥歯がわずかに軋んだ。
噴水の縁から立ち上がる。
考えるより先に足が動いていた。
「おい」
喉を通った声は、思った以上に低く、冷たかった。
露店主と客の男が振り返る。
黒いローブと杖を見て、二人の視線が値踏みするように上下した。
「なんだ、お前も魔術師か」
露店主の声に、警戒と苛立ちが混じる。
グレンは若い魔術師には目もくれず、露店主の顔をまっすぐ見た。
「今の、お前が押したよな」
「はあ?」
「商品が落ちたのはお前のせいだろ。なのに弁償しろだと。当たり屋か?」
灰青色の瞳に浮かぶのは怒りではない。冷え切った軽蔑だった。温度を持たない視線が、相手を値踏みする。
「てめえ、何様のつもりだ」
客の男が一歩踏み出す。体格はグレンの倍近い。
グレンは動かなかった。
「何様でもない。見たまま言ってるだけだ」
「見たまま、だと?」
「証拠もなく人を泥棒呼ばわりして、突き飛ばして、落ちた品物の責任を擦りつける。それを大の大人が二人がかりでやってる。よくもまあそんなみっともない真似を」
最後の言葉が、火種に油を注いだ。
「このガキ……!」
胸倉を掴み上げられる。布がきしみ、足が地面から浮きかける。
グレンは表情を変えなかった。
ただ、杖を持つ手に微かな熱が集まる。空気が震え、皮膚の表面がひりついた。
「やめとけ」
横から伸びた手が、男の手首を掴んだ。
シャムロックだった。
眠たげな目のまま、男の腕をゆっくりと引き剥がしていく。
力を込めている様子はない。それでも、指が一つずつ強制的に開いていく。
「そいつは俺の連れだ。離してくれ」
声は穏やかだった。
だが拒否という選択肢を与えない響きをしていた。
「連れだぁ? こいつが先に――」
「見てたよ。仕掛けたのはお前さんだろ」
シャムロックの目が、一瞬変わる。
眠気が剥がれ、その奥に沈んでいた何かが顔を出す。
客の男は、反射的に手を引いた。
「……チッ」
舌打ちを残して身を翻す。
露店主も口を開きかけたが、視線を受けた途端、言葉を飲み込んだ。
二人が去ると、広場に歪んだ静けさが残る。ざわめきが戻るまで、一拍の間があった。
若い魔術師が呆然と立ち尽くしている。
グレンはそちらを見ずに、転がった果物を拾い始めた。
石の上に転がる感触を確かめながら、一つずつ拾い上げる。潰れたものは脇に避け、無事なものを木箱へ戻す。
「あの……ありがとうございます」
若い魔術師が頭を下げた。グレンは手を止めなかった。
「別に。ああいうのが我慢できないだけだ」
素っ気ない返事に、若い魔術師は困ったように笑った。
それから小走りに去っていく。
シャムロックが隣に立った。腕を組み、わずかに眉を寄せている。
「お前なあ」
「何だよ」
「あのまま殴られてたら、撃ってたろ」
「撃たない」
「嘘つけ」
図星だった。グレンは顔を背ける。
「……ちょっと驚かせる程度だ」
「仕事中に揉め事を起こすな」
「起こしてない。巻き込まれただけだ」
「自分から突っ込んでいっただろうが」
言い返せなかった。
「……見てたのか」
「最初から」
シャムロックは小さく息を吐いた。
その吐息に、わずかに呆れが混じる。
「止めに入る暇があったから良かったものの」
「別に頼んでない」
「知ってる」
歩き出す。
グレンはその場に立ち尽くした。
――連れ、と言われた。
その言葉の意味を、正確に掴めている気がしない。
友人。仲間。そういったものの輪郭が、自分の中では曖昧に滲んでいる。
里にいた頃から、そういうものを持ったことがない。
冒険者になってからも同じだった。
シャムロックの背中が遠ざかる。
人波の中に紛れかける。
グレンは走った。
人と人の間をすり抜け、息を整えながら追いつく。半歩後ろに並び、歩調を合わせる。
何も言わない。
シャムロックも何も言わない。
それでも、距離はわずかに縮まっていた。




