焼き鳥と不可侵線
夜明けは静かに訪れた。
焚き火はすでに熾を失い、白く崩れた灰の奥でわずかな熱だけが燻っている。湿り気を含んだ朝の空気が低くたゆたい、衣服の繊維の隙間からじわりと染み込んでくる。土と灰と冷えた木の匂いが混ざり合い、肺の奥に重く沈んだ。
グレンは浅い眠りのまま目を覚ました。まぶたの裏に残る像が、現実の光に溶けきらない。地下研究室の石壁に滲む冷気と、耳元で囁くあの声が、朝の白みの中でもなお輪郭を失わずにこびりついている。
あれから、シャムロックは何も聞いてこなかった。
昨夜の様子を気に留めていないのか、敢えて触れないのかは分からない。ただ、その距離が今は都合よかった。
街道に出る頃には、空気はすでに温み始めていた。朝露に濡れた草が足元でしっとりと音を立て、やがて日が昇るにつれて乾いた土の匂いへと変わっていく。昼に近づくにつれ、人の気配が増え、馬の蹄と車輪の音が道を満たしていった。やがて、低い屋根が連なる宿場町が視界に現れる。
街道沿いの小さな宿場町に到着したのは昼を過ぎた頃だ。前夜の進言に従って宿を取ることになった。ゴランは市場へと消え、エレナは古道具屋の並ぶ通りへ足を向ける。従者たちは馬車の軋みを点検し、油を差している。
護衛としての役目は、ひとまず途切れていた。
出番もないが、金もない。
手持ち無沙汰を持て余したグレンは、町外れの広場へ足を向けた。小さな泉を中心に、木々が影を落としている。葉擦れの音が柔らかく重なり、街道の喧騒が遠くに押しやられていた。
ベンチに腰を下ろす。木の表面は日陰で冷たく、わずかに湿っている。
目を閉じ、意識を内へ沈めようとした瞬間だった。背後の気配が、先にこちらへ触れてきた。
「何をボケっとしてる」
振り返ると、シャムロックが立っていた。手には焼き鳥の串が二本。焼けた脂がまだじわりと光を帯び、炭の香りがかすかに漂っている。
「奢りだ。ゴランのな」
半ば押し付けるように渡された一本を受け取り、かじりついた。
歯を立てた瞬間、皮が弾けて脂が滲み出る。塩気が舌に広がり、熱がじんわりと口内を満たす。
一瞬だけ、その匂いが歪んだ。焼けた脂の香りが、焦げた肉と鉄の臭気にすり替わりかける。血と煙が混じった、昨夜の戦場の記憶。
だが次の瞬間、舌に残る温度と塩味が現実へ引き戻した。
これは今ここにある味だ、と身体が理解する。
「……美味い」
「だろ」
シャムロックは短く応じ、そのまま隣に腰を下ろした。ベンチがわずかに軋み、距離が近づく。
沈黙が落ちる。それで終わるはずだった。
「お前、何で冒険者やってんだ?」
不意に投げられた言葉に、グレンはわずかに眉を寄せる。だがシャムロックの調子は変わらない。空を見上げたまま、気怠げな声で続ける。
「俺は魔法には詳しくないが」
(魔法じゃない。魔術だ)
反射的に浮かんだ訂正を、グレンは喉の奥で止めた。魔術を知らない相手に言葉の定義を説明したところで、意味はない。
「その腕なら、どこぞの魔術師団や宮廷魔術師だって射程に入るんじゃないのか」
遠くで市場の喧騒がざわめいている。呼び声と笑い声が、風に乗ってかすかに届く。
グレンは串を咥えたまま視線を落とした。単純な問いのはずなのに、胸の奥に小さな棘が刺さる。
「射程に入ったら、選ばなきゃいけないのか?」
やや棘を含ませて返す。だがシャムロックは反応を変えない。
「……ふむ」
軽く唸り、串を揺らす。肉の焼けた匂いがまたふわりと立ち上る。
「なら言い方を変えるか。それだけ腕があるのに、どうしてこんな安い依頼にしがみつく生き方してんだ」
「失礼なことズバズバ言い過ぎじゃない?」
声に険が混じる。
それ以上を遮るように、シャムロックが片手を上げた。
「悪気はない。単に興味がわいただけだ」
琥珀色の瞳が、真っ直ぐにグレンを捉える。眠たげなまま、焦点だけが鋭い。
グレンは小さく息を吐き、背もたれに体を預けた。
「それなら俺も興味あるね。近衛騎士にでもなれそうなあんたが、何でこんな田舎の安い依頼に首突っ込んできたのか」
その瞬間、空気が変わった。
シャムロックの指が止まる。串の揺れがぴたりと止まり、わずかな沈黙が落ちる。
一瞬――刃を喉元に突きつけられたような、硬い緊張が走ったように感じられた。
「悪い」
低く落とされた声には、これまでになかった揺らぎが混じっていた。視線が落ち、呼吸がわずかに深くなる。グレンはその変化を、はっきりと感じ取る。
「踏み入りすぎたな」
古傷に触れた感触が、遅れて伝わってくる。
「別に謝ることじゃないだろ」
思ったより柔らかい声が出たことに、自分でわずかに違和感を覚える。
すぐに鼻を鳴らして誤魔化した。
「俺も、安い依頼にしがみついてる身だしな」
軽口で蓋をする。これ以上は踏み込まないという意思表示でもあった。数日の同行に過ぎない関係だ。深入りする理由はない。
それでも胸の奥で、説明のつかない好奇心が微かに動いていた。
「……そうだな」
シャムロックも曖昧に応じる。
沈黙が戻る。だが先ほどとは質が違う。言葉にしない線引きが、二人の間に引かれている。
やがてシャムロックが大きく伸びをした。関節が軽く鳴る。
「行くか。ゴランが待ってる」
「ああ」
二人は並んで歩き出した。
沈黙は続く。それでも、その重さはもう軋んではいなかった。触れてはいけない領域を知ったことで、逆に均衡が整っている。
言葉にされないまま、何かが確実に変わっていた。
宿場町の通りは賑やかだった。干し肉が軒先で揺れ、乾いた獣の匂いと薬草の青臭さが混じる。革をなめした油の匂いが鼻に残り、足元では石畳が乾いた音を返す。荷車の軋みと人の声が重なり、空気が常に揺れている。
「おーい! こっちこっち!」
石畳の向こうで、ゴランが腕を振っていた。
「宿を取った。特に何もなければ、明日の出発まで自由にしてくれ」
昨夜までの軽薄さは影を潜め、ゴランの声はどこか慎重だった。
案内された宿は裏通りにあった。
「ここだ」
看板の「銀の鹿亭」は塗装が剥げ、雨に滲んだ文字がかろうじて読める。壁には細かなひびが走り、軒先には埃を絡めた蜘蛛の巣が垂れていた。
扉を押すと、歪んだ蝶番が軋み、高い金属音が耳に刺さる。
中に入ると、湿った木材と古い酒の匂いが鼻を突いた。空気は重く、どこか澱んでいる。カウンターの奥にいた痩せた老人が、じろりと一行を見た。
「二人部屋を三部屋。一番安いやつで」
わずかに眉が動いたが、老人は何も言わず鍵を差し出す。木製の鍵は手の中でざらついた感触を残した。
ゴランは銀貨を卓上に置き、釣りの銅貨を受け取る。
「……昨日は悪かったな」
小さく落とされた言葉。
エレナは小さく頷き、従者たちも何も言わず階段を上がっていく。
残されたのはグレンとシャムロックだけだった。
グレンは舌打ちを飲み込む。
不満を言う余地はない。全員が同じ条件だ。
「行くぞ」
シャムロックが無造作に言い、階段を上る。
踏みしめるたびに床板が軋み、足裏に頼りない感触が伝わる。
二階の一番奥、南向きの角部屋。
扉を開けた瞬間、埃の匂いが押し寄せた。
室内は狭く、ベッドが二つと椅子が一脚あるだけだった。壁紙は黄ばみ、指で触れれば粉が落ちそうなほど乾いている。床は一歩ごとに低く鳴り、窓枠には雨の染みが残っていた。
隙間風が吹き込み、冷気が肌を撫でる。
その冷たさが、地下の空気を思い出させた。
「随分と趣のある部屋だな」
「まあ、寝るだけなら十分だ」
それ以上の言葉は、どちらからも出なかった。




