第99話:脱出――。
「不十分? 誰か分からないから……聞いたんだけど」
「それが不十分だと言っている」
より近づいて来た存在が、右手首を私に向ける形でひねった。
「誰というのは、種族だけでなく立場が同じ者が、聞く言い方だ」
捉えていた男性が私の視界から消え、慌てて目を動かす。
けれど見つからず、魔力で遅れて捉えた時には――何故か目の前に現れていた。
手がぶつかってしまう程の近距離。
「――身の程を知れ」
そこに現れた敵が、右手で赤い何かを掴んだまま腕を振るいあげてしまう。
握られていた赤い何かが伸び、鋭い刃へと姿を変えた。
下から斜めに迫った攻撃。
それを避ける為に私は後ろに飛び退いてしまう。
確実に避けられた。そう思っていたのに、ケープレットの端が切られただけでなく、腹部から溢れ出した赤い血が、上着を赤く染め始めている光景を目にする。
斬られたの――あの一瞬で。
どれだけ斬れ味が良いのか。
遅れて鋭い痛みが身体に伝わっていた。
「この速度であっても、避けるか。ただ魔力を持ってるだけの、人間ではないようだな」
「そりゃね……」
こんないきなり現れただけの、良く分からない奴にやられる訳にはいかない。
私にだって、意地はある。
食い意地しかない団長だなんて、帝国では聞きたくもない。
それにしても、あの刃。
細く伸びたと思えば、もう手の中に収まっている。
まるで水みたいだ。
水……?
それって、液体なんじゃ……。
再び赤い液体を目にした私は、本当に居るのかも分からない一つの種族に行き着いていた。
「もしかして……吸血鬼?」
お願いだから、違うって言って。
違うって言って、お願いだから…………。
「ほう、良く知ってるな。我が名は――」
「灰化せ――業火の檻」
吸血鬼と答えた敵を炎が包み込み、正方形の檻が現れる。
周囲からは中が見えず、熱気だけが広がった。
「容赦のない女だ」
痛んでいる素振りすらもなく、微塵も焦っていない声が聞こえ来てしまう。
炎の隙間から赤い色が見え、瞬く間に棘が檻から突き出たかと思いきや、それが檻全体を壊しながら周囲に飛び散っていく。
「だが、吸血鬼と聞いて攻撃するのは、良い判断だったかもしれないな。倒せていたらの話だが」
かすり傷どころか、衣服が焼けた跡すらも見当たらなかった。
「どういう身体してるのよ……」
「どういう身体か。そうだな、特別に教えてやろう」
私に向かって吸血鬼が手を差し伸べる。
何かされると思って咄嗟に飛び退こうとするも、身体が動かずその場にとどまってしまう。
えっ……。
何で、声が出せない。
そもそも、どうして身体が……。
殆ど訳も分からないまま自然と、意識が腹部の傷口に向かってくれた。
私の身体に入り込んでいる私以外の魔力。
それが体内に広がっていた。
これぐらい、魔力で跳ね除けてしまえば。
「大したものだ。抗おうとするとはな」
気づけば目の前に来ていた吸血鬼が左手を伸ばし、私の首を掴んだ。
「っぁ――」
身体の自由が僅かに戻りかける中、身体が持ち上げられ、地面から足が離れてしまう。息すらまともに出来なくなり、もがこうとするも力が入らない身体は思うように動いてくれなかった。
「面白い素質を持ち合わせているな」
私を掴んだまま、見定める様に見られてしまう。
何かが気になるのか、ただ見ているのか分からないけど、嬉しいもんじゃない。
魔力を増やそうとするも思うようにいかない。
けれど、指先に僅かな力が入ってくれた。
「此処で殺すよりも、連れ帰った方が使い道も生まれるというものか」
「ぃやぁ……だ」
誰がこんな奴の所に……。
絶対に良い事なんて一つもない。
それに私には――ノエルさん達が待っていてくれる。
絶対に、帰るんだから。
手首から先だけなら動きそうなほど、感覚が戻っていた。
「混血種も見てみたいと思っていた所だ、光景に思え」
「へぇっ――ぇ?」
気に入ったからなのか、喉を握りつぶそうとする力が弱まってしまう。そして、まさか声が出るとは思わず、私は吸血鬼と目を合わせ別の意味で固まっていた。
混血種?
えっ、それってつまりは、吸血鬼と人の血が混ざっている存在の事だよね?
……どういう……。
は――。
いやいやいやいや、なし!
――なしだから絶対に!
一秒も掴まれていたくない私は必死に手首から先を動かし、地面に向かって伸ばした人差し指と中指を、思いっきり頭上に向かって動かした。
「フロォストォ」ウォール――。
掴む手をどかす様に、
私と吸血鬼の間に氷の壁が現れ、腕をへし折る勢いで聳え立つ。
掴んでいた腕が意図せず下から衝撃を受け、少し目を大きく開けた吸血鬼が驚いた様な表情を見せる。そして、私を掴んでいた左手から力が抜けていた。
身体が空中に落ちる中、後ろに向かって今度は指を動かし――殆ど動かない身体を氷で押し飛ばす様にして後方へと自ら飛ばす。
「はぁぁ……はぁぁぁ……はぁぁ。よし、出られた……」
魔力を少しでも放出したからか、先程よりも身体に力が入る様になっていた。
けれど、まだ走れるかと言われたら怪しい。
「氷も使えるのか」
興味を示す様な声色が聞こえ、下を向きかけていた視線が前に向く。
――氷の横から姿を見せた敵が、氷が当たったであろう左腕の衣服から付着した氷の欠片を払いながら歩いていた。
腕ぐらい折れててよね。
こっちは、辛い思いしているのに。
けど、一つ分かった事がある。
無理だ……。
まるで倒せる気配がしない。
今で戦った事のあるどの魔物とも違った。
大人が子供と戯れる様に、ありえないぐらい手加減されてしまっている。
そんな奴相手に勝つのは不可能に近い。
「どうしたら、もう諦めたのか?」
完全に舐められていた。
無防備に私の方へ向かって来る。
「だったら大人しくしていろ。であれば、傷つけたりはしない」
けどそこが、唯一残された可能性だった。
向こうの年齢も分からないけど、吸血鬼である事を考えれば、前世を含めたとしてもきっと私の方が年下に違いない。しかし、彼は知らないみたいだ。
子供と遊ぶ時は、気をつけないとね。
「――満ちて広がれ」
突然魔術書から溢れ出した大量の水が、私すらも押し流す勢いで辺りに広がり始めた。
「今度は水か、まさか。全てを扱えるとは言うまいな」
レイス系が苦手なんて教えてやらない。
そして逃げるにしても、普通に離れたんじゃ追って来られてしまう。
せめて負傷させるか、周囲の魔力をかき乱さないと駄目だ。
やがて広がっていた水が屋敷の反対側にもたどり着き、広範囲に届きわたる。そこから小さな火の様な粒が現れ始め、物凄い速度で数を増やしていく。
「大海原に咲き誇れ――」
そこから水面を殆ど見えなくさせる勢いで、炎の蕾が現れる。
私の触れている脚から熱は感じず、それは相手だって同じだった。
「何だこれは――これほど膨大な魔力を使っておきながら、ただの見せかけであったのなら、些か興が冷めたぞ」
「そうだよ、綺麗でしょ」
本物の花は沢山は育てた事がないけど、私には一輪でも手一杯だと思う。
これだって、元から形を決めているに過ぎなかった。
「その程度なら、仕方がない」
火傷すら負わさない魔術を見て、本当に無害だと思ったのか。
それともどうにでもなると思っているのか。
私を殺そうと、手のひらを向けた。
直後に飛んで来る細い血の刃。
けれど、それが私に届く事はなかった。
吸血鬼の手から離れるや、血が霧散し周囲に散っていく。
「何をした」
「さぁ、なんだろうね」
「もう良い、直接この手で殺すだけだ――」
動こうとした吸血鬼だったが、もう遅い。
「――絶火の花」
足元に現れた炎の蕾が一斉に咲き始めてしまう。
それを確認した私は、直ぐに別の魔術を起動させる。
「スペル――シンボル」
事前に結果が決められている魔術。
それも、緊急脱出様の短いものだった。
――景色が一瞬にして変わり、
私の視界に水色の空と、木々の葉が端の方で映り込む。
「やばっ――」
身体が落下し、体勢を変えようとするも、それより前に何かが私にぶつかった。
力強くも包み込む様な優しい感覚を受ける。
身体の落下が止まり、直ぐにノエルさんの顔が目に入った。
「本当に、いきなりだったね」
「ありがとうございます、ノエルさん。それと――」
落ちなかった事に安堵すると同時に、馬車の走る音も聞こえてくる。
そして私は、ノエルさんに一言だけ伝えた。
「驚いて、落とさないでくださいね?」
「いったい何の――」
疑問に思ったノエルさんが口を開き私に聞き返そうとする最中――大きな振動が馬車に伝わった。
投げ飛ばされるかと思う程の衝撃を受け、ノエルさんが咄嗟に屈んでくれる。
「お掴まり下さい!」
直ぐ側からアレクシアさんの声が聞こえ、私とノエルさんが近くにあった馬車の一部を掴み始めていた所に、耳を塞ぎたくなるような音が続けざまに届いた。
巨大な爆発音が森を突き抜け、
木の葉が舞う中、一斉に生物が動き回る。
何が起こったのか他の人が理解する間もなく――私達は、空高くに舞い上がった爆炎を目にするのだった。




