5.集中
5.集中
__翌日の朝。
目が覚めた瞬間から、
胸の奥が落ち着かなかった。
カーテンの隙間から差し込む薄い光。
天井を見上げたまま、
美空は布団の中で小さく息を吐いた。
昨日、
旧校舎裏で聞いた言葉が頭から離れない。
「私、去年から千代野くんのことが好きなの」
あの先輩は、
昨日あのあと空に会えたんだろうか。
ちゃんと気持ちを伝えたんだろうか。
そして__
空は、なんて答えたんだろう。
「……っ」
考えた瞬間、
胸の奥がざわつく。
知りたい。
でも聞けない。
もし、
「うん、告白された」って言われたら。
もし、
「付き合うことになった」なんて返ってきたら。
そんな想像をしただけで、息が浅くなった。
「美空ー、起きてるー?」
母の声に、
慌てて返事をする。
「起きてる!」
布団から出る。
鏡の前で髪を整えながら、
自分の顔を見る。
少しだけ寝不足だった。
玄関を開けると、
いつものように空がいた。
制服姿で、
鞄を肩にかけて、
門柱にもたれている。
「おはよ」
「……おはよ」
__いつもの声。
__いつもの朝。
なのに、
目を合わせるのが少し怖かった。
昨日、
先輩に会ったあと。
空は何か知っているんだろうか。
放課後、
誰かと会ったんだろうか。
聞きたい。
でも、
言葉が喉に引っかかる。
「……どうした?」
「え?」
「眠そう」
「あ……ちょっと」
「寝不足?」
「そんな感じ」
空はそれ以上聞かなかった。
並んで歩く。
いつもの通学路。
けれど今日は、
隣にいることが少しだけ苦しい。
話しかけようとして、
やめる。
「昨日さ」
その一言すら、
出せなかった。
授業中も、
ほとんど集中できなかった。
黒板の文字が頭に入らない。
先生の声が遠い。
ノートを取る手が止まる。
何度も、
何度も、
空の背中を見てしまう。
__斜め前の席。
__シャーペンを持つ手。
__ノートを書く横顔。
何も変わっていないように見える。
それが余計にわからなくなる。
__告白されたの?
__されてないの?
__返事したの?
__どう思ってるの?
頭の中がそればかりだった。
__そして放課後。
弓道場には、
乾いた弦音が響いていた。
窓の向こうから差し込む夕方の光が、
板張りの床に長く伸びている。
美空は深く息を吸った。
肺いっぱいに空気を入れて、
静かに吐く。
__集中。
頭の中を空っぽにする。
そう思っているのに、
胸の奥はまったく静かにならなかった。
矢を番える。
左手で弓を押し、
右手で弦を引く。
肩を開いて、
狙いを定める。
的はまっすぐ前にある。
いつも通り。
何百回も見てきた場所。
なのに。
離れた瞬間、
ヒュッ__
矢は的の右を外れて抜けていった。
「……っ」
小さく息が漏れる。
外した。
美空は一度視線を落とした。
珍しいことではない。
一本外れることはある。
でも、
今日は違った。
二本目。
外れる。
三本目。
また外れる。
的の周りに刺さる矢。
中心に一本も届かない。
手のひらが汗ばむ。
指先が落ち着かない。
「……月瀬、大丈夫か?」
顧問の声に、
美空ははっと顔を上げた。
「……はい」
答えた声が、
自分でもわかるくらい固かった。
__視線を感じる。
__道場の後方。
同じ列の少し後ろに立つ空が、
静かにこちらを見ていた。
弓を持ったまま。
射位に立つ前の姿勢のまま。
その目が、
美空を追っていた。
気づいた瞬間、
余計に心臓がうるさくなる。
__見られてる。
それだけで、
また呼吸が乱れる。
「……一回、下がれ」
顧問が静かに言った。
「少し休め」
「……はい」
美空は小さく頭を下げ、
射位から外れる。
弓を持ったまま、
道場の端へ移動した。
__板の間に座る。
膝の上に手を置いて、
視線を落とす。
情けなかった。
どうしてこんなに乱れてるんだろう。
いつもなら、
もっと引ける。
もっと当たる。
こんなふうに、
何本も外すことなんてない。
でも。
頭に浮かぶのは、
昨日の旧校舎裏だった。
「私、去年から千代野くんのことが好きなの」
その言葉が何度も繰り返される。
そのあと、
空に会えたんだろうか。
気持ちは伝えたんだろうか。
空は、
どんな顔で聞いたんだろう。
返事はしたんだろうか。
__断った?
__それとも。
そこから先を考えるのが怖かった。
「……美空」
低い声がして、
顔を上げる。
空だった。
いつの間にか練習を抜けて、
道場の端まで来ていた。
道着姿のまま、
弓を壁に立てかけて、
美空の前にしゃがみ込む。
「……何」
「調子悪い」
「……そうかも」
「そうかも、じゃない」
静かな声。
責めているわけじゃない。
ただ、
まっすぐだった。
「今日ずっと変」
図星だった。
美空は答えられない。
空は少しだけ視線を和らげる。
「手、震えてた」
「……見てたの?」
「隣だし」
そうだった。
空も同じ弓道部で、
同じ道場で、
ずっとすぐ近くにいた。
射位に立つ姿も、
矢が逸れる瞬間も。
全部、
見られていた。
「……なんかあった?」
また、その言葉。
何度目だろう。
昨日からずっと、
空は気づいている。
美空が何かを抱えていることに。
でも、
何も知らない。
美空は唇を結ぶ。
聞けばいいのに。
昨日、
先輩に会ったの?
告白されたの?
なんて答えたの?
たったそれだけなのに。
喉まで出かかって、
どうしても言えない。
怖かった。
もし、
知ってしまったら。
今までの“いつもの隣”が、
変わってしまう気がして。
「……別に」
やっと絞り出した言葉は、
それだけだった。
空はしばらく黙っていた。
それから小さく息を吐く。
「……そっか」
それ以上、
聞いてこなかった。
立ち上がって、
また射位へ戻っていく。
その背中を、
美空は見つめた。
空の引く弓は綺麗だった。
まっすぐで、
迷いがなくて、
静かだった。
弦音が響く。
矢は、
迷いなく的の中心へ刺さった。
乾いた音が、
道場に残る。
美空は膝の上で、
そっと拳を握る。
__隣にいるのに。
__同じ道場にいるのに。
__同じように弓を引いているのに。
今日の空が、
どうしようもなく遠く見えた。




