4.名前の無い差出人
4.名前の無い差出人
「……千代野くんのことで、話したいの」
その言葉が、
旧校舎裏の静かな空気の中に落ちた。
風が吹く。
古びた窓枠が、
かたん、と小さく鳴った。
美空はしばらく、
何も言えなかった。
目の前の先輩は、
制服のスカートの裾をぎゅっと握っている。
緊張しているのが、
見ているだけでわかった。
「……えっと」
ようやく声が出る。
「空の……こと、ですか?」
先輩は静かにうなずいた。
「……ごめんね。急に呼び出したりして」
「い、いえ……」
美空の頭の中は、
まだ整理が追いついていなかった。
__手紙の差出人。
__名前のない封筒。
__六月八日。
__旧校舎裏。
そして__
__千代野空。
先輩は少し視線を落としてから、
意を決したように顔を上げた。
「私、去年から千代野くんのことが好きなの」
その一言に、
美空の胸の奥がぎゅっと縮まった。
「……」
「でも、卒業も近いし……
ちゃんと伝えたいって思って」
美空は何も言えない。
先輩は続ける。
「それで……あなた、千代野くんと仲がいいから」
仲がいい。
その言葉は間違っていない。
__幼なじみ。
__家が隣。
__ずっと同じクラス。
誰が見ても、
一番近い存在。
「千代野くんって……好きな人、いるのかな」
美空の呼吸が止まった。
聞かれるとは思っていなかった。
「……え」
「もし知ってたら教えてほしくて」
困ったように笑う先輩。
悪気なんてない。
ただ、
本気で知りたいだけ。
それがわかるからこそ、
余計に苦しかった。
好きな人がいるか。
そんなこと、
美空は知らない。
__知らない、はずだった。
けれど。
ふと、
空の顔が浮かぶ。
朝、「誕生日」と言って渡してくれたプレゼント。
「なんか変」
と気づいた視線。
教室で目が合った瞬間。
__いつもの顔。
__いつもの声。
__いつもの距離。
その全部が、
今は少しだけ違って見える。
「……わからない、です」
美空は小さく答えた。
先輩は少し残念そうに目を伏せた。
「そっか……」
「ごめんなさい」
「ううん。急に聞いてごめんね」
少し沈黙が落ちる。
そして先輩は、
少し笑って言った。
「でも……もしよかったら」
「……?」
「伝えるなら、今日がいいかなって思ってて」
美空は顔を上げる。
「今日……?」
「誕生日の日って、
なんとなく覚えてもらえそうでしょ」
先輩は少し照れたように笑った。
その笑顔に、
美空は何も言えなくなる。
たぶん、
この人は今日、
空に告白するつもりなんだ。
そう思った瞬間。
胸の奥に、
言葉にならない何かが落ちた。
重たくて、
苦しくて、
少し息がしづらい。
「……呼び止めてごめんね」
先輩が頭を下げる。
「ありがとう」
美空も小さく頭を下げて、
その場を離れた。
旧校舎裏から校舎へ戻る廊下は、
やけに静かだった。
窓の外では、
弓道場の方から声が聞こえる。
矢が的に当たる音。
乾いた音が、
空気を切る。
空は今、
いつも通り弓を引いているんだろう。
何も知らない顔で。
あるいは、
もう知っているんだろうか。
告白されることも。
その相手が誰かも。
下駄箱でローファーに履き替えていると、
後ろから声がした。
「……美空」
振り向く。
そこにいたのは、
部活を終えた空だった。
弓道着から制服に着替えたばかりらしく、
髪が少し乱れている。
「帰る」
「あ……うん」
並んで歩き出す。
__夕方の住宅街。
__伸びる影。
__六月の風。
隣を歩く空との距離は、
いつも通りのはずなのに。
今日は妙に遠かった。
「……部活どうだった?」
美空が聞く。
「普通」
「そっか」
会話が続かない。
珍しいことだった。
空も何度か、
こちらを見ている気がした。
けれど、
何も言わない。
少し歩いて、
信号待ちで止まる。
赤信号。
車が通り過ぎていく。
その時。
「……今日」
空が口を開いた。
「え?」
「放課後、どこ行ってた」
美空の心臓が跳ねる。
「……え」
「教室、戻った時いなかった」
見られていた。
美空はとっさに視線を落とす。
「……ちょっと」
「誰かいた?」
その問いに、
美空は答えられなかった。
先輩のことを言うべきか迷う。
でも、
言葉が出てこない。
沈黙。
信号機の音だけが鳴る。
空はそれ以上聞かなかった。
青になって、
また歩き出す。
隣にいるのに、
会話がない。
その静けさが、
妙に胸に残った。
空は気づいている。
美空が何かを隠していること。
でも聞かない。
聞けない。
美空も同じだった。
旧校舎裏で何があったのか。
空に言えない。
言いたくないのか。
言えないだけなのか。
自分でもまだわからない。
ただひとつ、
はっきりしていることがある。
名前のない差出人の正体は見えた。
でも、
その手紙が運んできたものは__
まだ、
何も終わっていなかった。




