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第一章 安永七年秋 (九)

 

 若様の熱が下がったところで、康二郎は長屋の二階での寝起きに戻り、更に約半月後、咳が治まった若様に、ようやく甲山先生から「短時間ならば」と、外出の許しが出た。

「明日は久しぶりに溜池へ行こう」

 若様の言葉に康二郎は早く明日になれという気持ちで寝床に潜り込んだ。

 寒くなってきたから、水辺の様子はずいぶん変わっただろうな、虫はまだいるかな、町屋の子供達と会えるかな……などと考えていたら、明日が楽しみ過ぎてなかなか寝付けない。


 布団の中で何度も寝返りをうっていたら、門が開くような音が微かにした。

 康二郎は耳をそばだてた。足音が聞こえる。

 ――いつかのような……あれは夢ではなかったんだ……

 今度は中から外へと足音は動いていった。敷地内から外へ出たらしい。

 康二郎は屋敷外に向いた格子窓へ急いで這っていき、外を窺った。

 月明かりはこの時も弱かったが、前よりは辺りがよく見えた。

 左見右見したら、塀の側を歩く女の後ろ姿がうっすら見えた。

 ――誰だろう?どこへ行くんだろう?


 野田屋敷に女人は奥様、おたま、おきぬ、おみつと下女のおはましかいないのだが、弱い月明かりの中で見えた遠ざかっていく後ろ姿では、康二郎には誰とはっきりわからなかった。少なくともおたまではないと思ったが、自信はなかった。


 明け方までには眠りに落ちてしまい、康二郎は出ていった人物が戻ってくるのを見ることなく、朝には全員が屋敷にいた。

 ――一体誰だったんだろう?前に戻ってくるのを見たのも同じ人だった気がする……

 それも自信はなかった。



 元気になった若様と久しぶりに溜池へ出かけると、前に来た時とはがらりと様子が変わり、水辺はすっかり色褪せていた。

 若様は溜池へくると、いつもどこかに腰を落ち着け、紙と筆を取り出す。

 若様が絵を描いている間、康二郎は好きに水辺を駆け回り、遊んだ。時には溜池へ遊びに来た町家の子どもたちと一緒になって遊んだりもした。だがこの日は誰もいなかった。

 若様と康二郎が出かける時にはいつも茂吉が供をするのだが、実は康二郎も茂吉と一緒に若様の供をしているつもりでいた。もっとも、道中は佩刀の稽古として身に付けている脇差を左腰におとなしく差しているものの、溜池に着けば茂吉に預けて駆け回るのだから、お供の覚悟も知れたものではある。

 傍目からはどう見ても茂吉が一人で二人の子供の面倒を見ている図でしかない。


 その茂吉は、絵を描いている若様の近くに座り、じっとしていない康二郎は目で追いかけて二人の子守り役をこなしていた。

 一方、好き勝手に遊んでいるようで、康二郎も康二郎なりには若様の様子を時々確認していた。時々遠くから手を振ったりするのは、様子や調子を確認するためでもあるのだ。


 康二郎が本日の獲物の沢蟹を手に、若様と茂吉の方に戻ろうと水際を歩いていると、白っぽいイモリを見つけた。

 ――イモリがまだいるなんて。しかも珍しい色だ!兄上に見せなきゃ!

 と、思うより先に康二郎の足と手は動き、次の瞬間にはイモリを捕まえていた。寒さで弱っていたこともあるだろう。

「若様、お寒くはございませんか?」

 白っぽいイモリを掴んでいる右手を庇うように胸元近くに寄せて土手に向かう康二郎の耳に、茂吉が若様を気遣って言うのが聞こえた。


 動き回っていたから康二郎は汗をかいているくらいだったが、日の傾くのが早い。空を雲が勢いよく覆い始めていた。

 立ち止まって雲の動きを眺めていたら、汗をかいた分、一気に冷えたらしく、くしゃみが出た。

 悲劇はその瞬間に起こった。

 くしゃみで手が緩み、つい屈んだ康二郎の懐にイモリがピョンと飛び込んだのだ。

「ヒエッ」と、沢蟹を放り出し両手であわてて着物の下を移動するイモリを捕まえようとしたが、暖かい着物の下で元気を取り戻したらしいイモリは康二郎の手を嘲るように素早く背中へ回っていった。


 康二郎の様子がおかしいのに気づいた若様と茂吉が一斉に土手を駆け降りてきた。

「康二郎、どうしたのだ?」

「イ、イモリが背中に、き、着物の中に…」

「ええっ?!」

 二人は揃って顔色を変え、同時に叫んだ。

「康二郎、じっとしてろ!」

「康二郎様、じっとしてください!」

 二人の剣幕に康二郎はピタッと動くのを止めた。背中でイモリも動くのを止めた。


「今もイモリは背中ですか?襦袢と袷の間ですか?それとも襦袢の下に?」

 茂吉が康二郎に静かに近づきながら訊いてきた。

 康二郎は茂吉の言葉の「背中」と「襦袢の下」の二ヶ所で頷き、右手を背中に回しておおよその位置を示した。

 背中のど真ん中、やや下よりである。

 茂吉はそろりそろりと康二郎の袴を脱がせて帯を緩めると、背中をつまんで余裕を持たせた形を保って康二郎に諸肌を脱がせた。途端に外気が寒いからか、イモリが下へ移動し始めた。


「ひぇひぇひぇ」

 康二郎が奇声を発したときには、もう茂吉はイモリを康二郎の肌から引き離していた。茂吉がふうと息をついた。

 見守っていた若様もふうと大きく息を吐いた。

「珍しい色してるから、兄上に見せようと思って……」

 康二郎はイモリがどうなったかと、襦袢の袖に腕を通しつつ、茂吉を振り返って言った。

 茂吉はまだイモリを掴んだままだった。康二郎の言葉にしげしげとイモリを見つめた。

「康二郎様には珍しいイモリだったんでやすね……」

「どれ?茂吉は見慣れてるのか?俺は初めて見るよ」

 若様の言葉に康二郎は嬉しくなった。

「よかったぁ!珍しいですよね!……ふ、ふぇっくしょい!……はあっくしょい!」

 袷を元通りに着終わっていたが、短時間でも上半身裸になったツケが回ってきたらしい。くしゃみから震えもきた。


 すぐさま茂吉がイモリを放り出し、康二郎の背中を両手で擦り始めた。着物越しだから、乾布摩擦だ。

「だ、だ、だいじ、じょうぶぶぶ……」

 摩擦の振動で震えながら答える康二郎に、若様は吹き出しながら綿入れの羽織を脱いだ。

「茂吉、俺は平気だからこれを康二郎に着せてやってくれ」

「いや、若様はそのままで。康二郎様にはあっしのこの羽織を」

 茂吉は摩擦の手を止めると、着ていた袷の羽織を素早く脱いで康二郎に着せようとした。

 思わず康二郎は笑い出し、若様と茂吉も釣られたのか、康二郎のジタバタを思い出したのか、笑い出した。

「大丈夫ですって。もう寒くない」

 康二郎はにかっと笑ってみせた。


 帰り道には雪が散らついてきたが、若様と茂吉に挟まれて歩く康二郎は、襦袢と袷だけにも関わらず、寒さを感じなかった。









  ―― 第一章 終わり ――







* 第二章第一回は明日夜に掲載/公開します。




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