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第一章 安永七年秋 (八)

 

 どれくらいその状態が続いたのだろうか。

 微かに物音がした。

 畳の摩れる音だと康二郎が気づいた時、若様がほうっと息をついた。突然ぐったりと完全に康二郎にもたれかかってきた。

 支えきれず、康二郎は若様の下敷きになって後ろにひっくり返ってしまった。

 若様の下から這い出して。その顔を見たら、気を失っているようだった。康二郎一人では床に戻せない。

 ――奥様は?

 周りを見回した時、やっとさっきの畳が摩れる音は奥様が部屋を出ていった音だったのだと知った。

 ――奥様はいったい何をしようとしたのだろう?若様がこんなに必死になるようなこと……そういえば、お屋敷の中なのに奥様は懐剣を帯に差していた……

 懐剣を抜く奥様が頭に浮かんだ。

 康二郎はあまりに怖い想像に、考えるのを止めた。



 若様の熱はなかなか下がらなかった。発疹は出なかったから、甲山先生は感冒だと診断した。

 康二郎は看病のため、引き続き若様の部屋で過ごすことになり、夜中も時々起きては様子を確認した。気が張っているからか、勝手に数時間おきに目が覚めた。そのぶん昼間はおたまとおきぬが交代で枕元につき、康二郎はうたた寝をした。


 あまりに下がらない熱に、康二郎はどんどん不安が募ってきていた。

 ――このまま若様が死んでしまったら、どうしよう。

 考えただけで涙が溢れてくる。

 ――おっかさん、若様を、兄上を助けて……

 祈りながら、思わずおっかさんが麻疹で寝込んでいるときにしてくれたことを若様にしていた。「治りますように」と唱えながら、額と額を合わせるのだ。若様の額は相変わらず熱かった。

 思わず自分の額を若様の額にくっつけてしまった後で、康二郎ははたと我に返り、周りを見回した。もしもおみつが覗いていたら、奥様に言いつけて、また一騒ぎ起こるかもしれない。

  幸い誰もいなかった。辺りは静まり返っていた。


 奥様は若様が身体をはって奥様の何らかの企みを阻止して以降、少なくとも康二郎がいるときは部屋に現れていなかった。

 若様の部屋にはめったに来ないものの、仏壇の前で若様が回復するよう毎日半日近くもお経を唱えていると、おたまが言っていた。やっぱり「おっかさん」なのだと、康二郎は思った。


 若様の熱が下がり始めたのは、康二郎が額をくっつけた翌日からだった。

 たまたまか、あのまじないが利いたのか。とにかく康二郎は嬉しかった。このまま下がっていってくれるよう願いを込めながら、翌日も手拭いを変える時にこっそり額をくっつけた。


 翌日になると更に熱は下がり、若様は床でしばらく座っていることができた。

 さすがにそうなると、こっそり額をくっつけるのが難しい。ここまで利いたら、もう大丈夫だとも思った。

 康二郎はおっかさんに感謝した。ふと奥様は奥様で神仏に感謝するのだろうなと思った。


  その日、康二郎は若様がちゃんと上体を起こし、自分でお粥を食べるのを嬉しく見守った。

「額と額をくっつけるのは誰に教わったの?」

 若様がいきなり言ったのは、粥を食べ終わっておきぬが膳を片付けに下がり、また二人きりになったときだった。

 康二郎はびっくりして手にしていた桶を落とし、水を畳に盛大にこぼしてしまった。布団に染み込まないよう、慌てて手拭いで水を拭き取る康二郎を、若様は面白そうに見ていた。


「ふふ。そんなに驚くところを見ると、俺が気づいていないと思ってたんだ。最初は夢かと思ったけど、二日目に夢じゃないとわかった。嬉しかったよ。康二郎の気持ちがよくわかったもの。あれは康二郎の母君がやっていたこと?」

 康二郎は照れもあって畳を拭きながら頷いた。

「俺が麻疹で寝込んでいた時におっかさんが毎晩やってくれてたことだよ。治りますようにと呟きながら……」

「康二郎は麻疹を乗り越えたんだ!『おっかさん』のまじないの効き目はすごいね。俺もこうして起きられるようになったし」


 本気かどうかはともかく、若様が自分が回復してきたのはあの「まじない」が効いたのだろうと言ってくれたのが、康二郎には思わず顔がほころんでしまうほど嬉しかった。


「ねぇ、『おっかさん』との長屋での暮らしを聞いてもいいかな?思い出させると辛いかと今まで我慢してたんだけど、知りたいんだ。康二郎とお松が長屋でどんな風に暮らしていたか」

 康二郎は畳を拭く手をとめ、若様の顔を見た。嬉しいような恥ずかしいような気持ちがあった。

「長屋はここと違って、とっても狭くて汚いですよ。壁も薄いから、隣の声は筒抜け。おっかさんとの暮らしは、何もなくて、若……兄上が面白いと思うかな……」

「知らないことだから、面白いに決まってる」

 康二郎は何から話していいかわからず、とりあえず長屋の店の説明から始めた。

「この部屋くらいの広さに流しと竈のある土間と板の間があって……」


 布団は一組しかなく、おっかさんと同じ布団で寝ていた。冬は半纏と掻巻を重ねても寒くて親子はくっついて寝ていた。逆に夏は蒸し暑くて、布団なんか着ていられない。親子はくっついて寝ない。

 おっかさんは昼間は飯屋に働きに出ていて、康二郎は働きに出ない長屋のおきわ婆さんの世話になっていた。同じ長屋に住む子供たちとよく遊び、隣の長屋に住む子供たちとはよく喧嘩した。喧嘩の原因が向こうにある限り、おっかさんは怒らなかった。康二郎にはいつも優しく明るいおっかさんだった。一度ひどくおこられたのは、相手に大怪我をさせた時だった。康二郎一人でやったわけではなく、同じ棟割長屋に住む子供連中、三人での仕業だったのだが、珍しく声を張り上げて怒られた。


 おっかさんの具合が最初に悪くなったのは、亡くなる半年ほど前だった。一月近く寝込んで稼ぎがなかったため、康二郎は夜はおっかさんの看病、昼間はいつも康二郎の面倒を見てくれているおきわ婆さんにおっかさんの看病を頼み、蜆の棒手振りをした。深川から遠く離れたところまで、丸一日江戸の町を売り歩いて稼ぎはわずかだったが、無いより遥かにマシだった。


 ふと見ると、若様は泣いていた。

 康二郎は棒手振り、楽しかったですよと慌ててつけ加えた。

「よく買ってくれる料理屋を見つけたし、他にも馴染みになって買ってくれる女の人が何人かいたんです。おつりはいらないと言ってくれたり……」

 若様には考えられないことだろう。

 泣きながら、しかし、次に若様が言ったのは、「長屋の親子って、そういうものなんだ……」だった。

 康二郎はハッとした。


「俺のおっかさんは優しかったけど、長屋にはいろんなおっかさんがいましたよ。やたら怒ってばかりのおばさんや、白粉ぬったくって顔ばっかり気にして、自分の子どもを放ったらかしにしてる女の人もいた。兄上の母君もいろんな『おっかさん』の一人ですね」

 康二郎の気持ちは伝わったろうが、慰めになるかどうかは微妙な話である。


「兄上だって小さい頃は奥様と一緒の部屋で過ごしたんでしょう?」

「違うよ。俺は乳母に育てられたんだ。母上が俺を産んだあと具合が悪くなったのもあるけど、旗本の家ではよくあることさ。うちは小身だけど、大身になればなるほどね。乳母は乳離れでお役ごめんになり、今では顔も覚えていない。そのあとは女中のおしずが世話をしてくれていた。お松もおしずを手伝って、俺に食べさせたり着替えをさせていたと聞いた。もちろんお前を身籠る前の話」

 今度は康二郎が知らない武家の世界の子育てである。


「じゃあ、俺と兄上とはやっぱり兄弟なんだ。短くったって、おっかさんは兄上の世話をしたんだもの」

 康二郎の素直な感想だった。

 若様は軽く笑った。

「おしずさんが辞めておきぬさんが来たと聞きましたけど、おしずさんはどうして辞めたんですか?」

 若様は答えるのに少しだけ間を置いた。

「おしずはここを辞めさせられたんだ。俺が母上よりおしずに懐いてしまったから」


 これは康二郎にとってかなりの衝撃だった。

 ――真面目に、一生懸命やっていれば、良いことがある。良いことまでいかなくとも、少なくとも悪いことは起こらないと教えられてきたのに……

 若様が奥様より懐いたというからには、おしずは真面目にきっちり仕事をこなしたのだ。なのにその結果、ここを追い出されたことになる。あんなに優しかったおっかさんがこんなに早く逝ってしまったことに幼くして世の不条理を感じた康二郎だったが、またひとつ、世の不条理を感じる話を知ってしまった。


「母上が嫌いなわけじゃないよ。嫌いじゃないけど……」

 若様はそれ以上奥様について何も言わなかった。


 この後も若様は時々康二郎に屋敷に来るまでの話をしてくれと言ってきた。

 康二郎も若様に話した後は不思議と心がさっぱりして落ち着いたから、尋ねられれば、おっかさんとの思い出や長屋での出来事を思い浮かぶままに話した。








*第九回(第一章の最終回)は、1時間後に掲載/公開します。

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