第一章 安永七年秋 (七)
その言葉におたまも康二郎も飛び上がるように立ち上がり、押し入れから布団を引っ張りだした。
付け木をとったばかりなのも忘れ、康二郎はおたまが広げた敷き蒲団の上に大きく腕を動かし、全身を使って掛け布団を広げた。
甲山先生は、康二郎とおたまが床の用意をしている間に、若様の診察にかかっていた。
床の用意ができたところで、おたまに言われ、康二郎は又兵衛とおきぬに知らせに走った。まずは又兵衛がいる座敷の障子の外で叫んだ。
「若様のお具合が良くないそうです!今、甲山先生が診てくださってます!」
又兵衛がすぐに障子を開けた。康二郎を見下ろす。
「康二郎殿は付け木がとれたか。奥様とおきぬには私が知らせよう。康二郎殿は若様についていなさい。私もすぐに行く」
「はい!」と一声、康二郎は取って返した。
若様の部屋に戻ると、若様は床に横になり、甲山先生がおたまに説明しているところだった。康二郎を見ると、甲山先生は、
「今度はそなたが若様の看病をすることになる……と言いたいところだが、この高熱は気になる。看病は子供でない方がよかろう」
康二郎は不安でいっぱいになった。
「若様はそんなに具合が悪いのですか?」
「今のこの様子からは感冒だと思うが、予断はできない。下痢や発疹がでてこないことを祈っていなさい」
康二郎は青ざめて座りこんだ。若様にもしものことがあったら、この屋敷には居られない。居たくもない。嫡男になにかあったら、次男が……の次男が自分であることなど全く頭になかった。そもそも自分が次男だと思っていない。
奥様とおみつが部屋に走り込んできた時、康二郎は若様の具合が悪いことに気をとられ、身を隠すのが間に合わなかった。いきなり後ろから強い力で突き飛ばされた。
「わっ!」と前へのめり、よりによって若様の布団の上に倒れ込んでしまった。
おたまと話していた甲山先生は何が起こったかわからず、目を丸くしていた。
「若様、だ、大丈夫ですか?」
慌てて立ち上がろうとしたところが、今度は引っ張りあげられた。忙しい。
振り返ると、奥様の腰巾着、おみつだった。
「ごめんなさいね。まさかあんなところに座っているとは思わなくて。慌てたものだから」
康二郎を見下ろしながら、おみつは言った。白々しい。
「おみつ、連れていきなさい」
奥様の冷たい声がした。
「康二郎をどこへ連れていくの?」
声の方を見ると、若様が床で身体を起こしかけていた。高熱で目の焦点があっていない。
おたまがおみつに言った。
「おみつ、康二郎殿を離しなさい。康二郎殿、一緒に若様のためにお水を汲んで参りましょう。若様、康二郎殿とすぐに戻ってまいりますからね」
おたまは見事に機転を利かせ、三者がそれぞれひとまず納得するようおさめて、康二郎を助けだした。
康二郎はおたまの後ろを歩きながら、先生が何を話したか尋ねた。とにかく熱を下げるしかない、熱が下がるのを待つしかないのだと、おたまは答えた。
「熱を下げるのが大事だから、誰かが若様について看病しませんとね」
「私も手伝います」
康二郎は熱があるとき、目を覚ます度にそばにいた若様を思い出し、今度は自分が若様の看病をしなければと意気込んでいた。
「駄目ですよ。若様は麻疹かもしれないのです。考えたくないけれど、疱瘡かもしれない……康二郎殿にうつってはいけません。若様にもしもの……」
言いかけて、おたまは止めた。立ち止まり、康二郎を振り向いた。
「若様は大丈夫ですよ。これまでに何度も高熱を出されたことがあるのです。私とおしず、おしずがいなくなった後は私とおきぬとで看病して、その度にちゃんとお元気になってこられました。だから今度も私たちに任せてもらえば、大丈夫ですよ」
康二郎の気持ちを読んでいるおたまである。
再び歩き出したおたまに、後ろから康二郎は言った。
「でも、私も手伝います。おたまさん、おきぬさんと一緒に若様の看病をさせてください。私が熱を出した時には、若様が看病をしてくださったのです。お返しをしたいのです」
康二郎は気づいていなかったが、きちんと言葉を使いこなしていた。もっとも、こんなときは間違っても何も言われないし、おたまは気にしていないことであったが。
おたまが水を入れた深い手桶と空の浅い桶、康二郎が手拭いを何枚も抱えて若様の部屋に戻ると、奥様が泣いていた。
――あの奥様が泣いている!
康二郎は怒った顔しか見たことがなかったから、心底驚いた。
――若様の具合は、病はそんなに悪いのだろうか?
そこに若様の声がした。
「康二郎は戻ってきた?」
「康二郎殿と一緒にお水と手拭いをお持ちしましたよ」
おたまが答えて奥様の後ろを回り、若様の枕元へ行った。
康二郎はおたまが通ったところから、さらに一回り遠回りして若様の枕元へ行った。
おたまは枕元へ座ると「康二郎殿はここにいますよ」と若様に教えた。
康二郎はさっと手拭いを桶にいれた水で濡らして固く絞り、二つ折りにして手に持った。おたまが頷いて若様の頭を少し持ち上げる。康二郎はすばやく手拭いを枕へ敷いた。続いて二枚目の手拭いを同じように濡らして今度は軽く絞り、小さく畳むと今度は若様の額に乗せた。その慣れた手つきには、甲山先生も少し驚いていた。
「手拭いが生温かくなったら替えるんですよね。おっかさ……母の看病をしたことがあるから、やらないといけないことはわかってます」
康二郎は三枚目の手拭いを桶に浸した。
若様が康二郎の方を見た。
「ここにいてほしいけど、うつるといけないって……」
「俺……私なら大丈夫です。麻疹なら去年かかったから。死ぬかと思うくらい苦しかった!感冒なら、小さい頃はよくひいたらしいけど、この二年くらいかな?ひいたことないです」
康二郎は額の手拭いを確かめた。あっという間に生暖かくなってきていた。
「お前はわたくしよりもこの子をとるのですね」
奥様が涙を拭きながら、突然口を開いた。
奥様の声がすると、康二郎はいつも心の臓がドキリとする。ビクッと肩が動くのを押さえられなかった。
「母上には他人かもしれませんが、私にはたった一人の弟です。あれだけ申し上げても、母上にはまだおわかりにならないんだ……」
奥様が泣いていたのは病気のことではなく、自分のことだったと知って康二郎は仰天した。
――この奥様を泣かせるとは、若様は一体どんなことを言ったのだろう?
甲山先生とおみつは全部聞いたのだろうが、二人とも何事もなかったかのようにすましている。
甲山先生は明日また様子を見に来るとだけいい、座敷を出ていった。
おたまがおみつを連れて先生の見送りに立ったため、部屋には康二郎、若様、奥様の三人が残った。
康二郎は奥様に気を尖らせながら、若様の枕元に座り続けた。一度、額の手拭いを変えた。そこから動いてはいけない気がしていた。
部屋に気まずい空気が充満し、康二郎は押し潰されそうな気がした。
そして、奥様は泣きはらした顔で呆然としていたところから、急に康二郎を睨み付けてきた。針のような視線に康二郎は身体を固くした。
――この人は一体何なんだ?
感情の起伏が激しくて、康二郎にはついていけそうにない。
ここからつまみ出されるかもしれないと思ったとき、若様がガバッと起きあがり、康二郎に覆い被さってきた。
「母上が何をお考えになったかわかりましたよ」
康二郎に覆い被さったまま、若様が冷たく言いはなった。熱に浮かされているとは思えないはっきりした言葉だった。
若様の胸のあたりがちょうど目の前にあった。若様に視界を遮られて康二郎には奥様が見えない。若様の全身が異様に熱かった。
――早く床に戻らせないと……
「康二郎にもしものことがあったら、私も生きてはいませんよ。母上、よろしいですね」
康二郎に覆い被さった若様が、いまでは倒れ込んできていた。起きているのが辛いのだ。康二郎は必死に支えた。
奥様は何も言わなかった。物音がしない。見えないから、何がどうなっているのか康二郎にはわからない。
「若様、床に戻らないと……熱がもっと上がってしまう……」
康二郎が頭でも若様を支えながら言ったその言葉が、奥様に届いたかどうかもわからなかった。




