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第一章 安永七年秋 (六)

 

 康二郎にとって幸いだったのは、おたまが奥様を追い抜いて康二郎に駆けよったことだった。

 康二郎は立ち上がろうとしたが、おたまは動かないでと、寝かせたまま康二郎の様子を確認した。

「頭は打ってませんか?」

「ちょっと打っただけだよ」

 おたまの表情が強ばった。康二郎が腕の痛みに耐えているのに気がついたらしい。

「すぐにお医者様を」

 おたまが奥様を振り向いた。

 康二郎もつられてそちらに目が行った。そこには怒りの目があった。


「和之助を危ない目にあわせて、なんという子でしょう。自業自得ですよ。気を失ってもいないし、わざわざ医者にみせることもないでしょう」

 若様もおたまも、奥様の怒りの目に飲み込まれかけたらしい。二人が口を開くまでに少し間があった。

「母上!お願いです。甲山先生を呼んでください。前に聞いたことがある。大丈夫だと思っていたら、急に悪くなったったことがあるって!」

「奥様、この腕は甲山先生に見ていただいたほうが良いと存じます。お願いです。わたくしからもお願いいたします。先生を呼びに行かせてください」

 おたまは庭で平伏した。

「……殿がお帰りになるまで待ちましょう」

 おたまも若様もその言葉に愕然として奥様を見つめた。


 若様の目からはとうとう涙が溢れ出した。

「康二郎が死んだら母上を恨みます!康二郎がこうなったのは、私のせいです。止めなかった私が悪いのです!康二郎、ごめんよ、ごめん……」

 若様は謝りながら、自力でやっと起き上がった康二郎に抱きついた。

「いてて……」

「あちこち痛いんじゃないか!やっぱり早く先生にみてもらわないと!」

 若様は再び奥様に向いた。

「母上、父上がいつお戻りになるのか、わからないではないですか。お忙しい日にはあと二刻くらいはお戻りにならない。父上はこんな康二郎を見たら、絶対に甲山先生を呼べとおっしゃいます。ことわりなく呼んで叱られることはないですよ」


 康二郎はこうなったのは自分が悪かったと自覚しているから、二人が必死に奥様に懇願しているのに気が引けた。腕はさっきよりは少し痛みがましになった気もする。妙な汗は出てきているけども、動かして見たらなんとか動かせた。変な感じだけれど、折れてはいないのだとホッとした。


「若様、おたまさん、腕も動かせるし、大丈夫ですよ」

 ほんの少しだが、右腕を動かして見せた。たらたら汗が流れてくる。

 おたまはそんな康二郎をじっと見つめた。しばらく何も言わなかった。

「では殿様にご報告してご判断を仰ぎましょう。ご帰宅早々、こんな報告を受けないといけないのもお気の毒なことで」

 言いながら、奥様は最後に妙な笑顔を見せていた。

 一部始終を見ていた、なにやら物言いたげな近くに屋敷のある旗本の奥様である訪問客を、奥様は追い払うように見送った。


 康二郎はどうにも気分が悪いので長屋で横になろうと思ったが、若様は奥様が母家に入ったのを見届けると、おたまに康二郎を自分の部屋へ連れていくよう指図した。

 おたまは一瞬ためらったが、

「甲山先生に診てもらうには、長屋の屋根裏より俺の部屋の方が良いよ。おたまにもその方が看病しやすいだろう?俺も手伝う」

 若様が赤い目で訴えるのを聞くと、決心したように大きく頷いた。「承知いたしました」と、一言返し、康二郎を抱えあげ、濡れ縁を静かに歩いて若様の部屋へと連れていった。


 それからどれくらいの間か、康二郎は若様の部屋でうつらうつらしていた。うつら……として、ふっと目を開けると、その度に若様が顔を覗きこんできた。濡れた手拭いで額や頬を拭いてくれた。気持ち良かった。妙な汗をかきつづけているらしい。

 何度目にか目が覚めたとき、若様が少しほっとしたように言った。

「もうすぐ甲山先生が来るからね。さっき父上が戻られて、おたまからお前のことを聞いたら、すぐ伊三治に先生を呼びに行かせた。鶴の一声さ」

 若様御自ら看病をしていることの奇異さに、康二郎は気づいていなかった。頭が回っていなかった。


「母上を許してほしい。なぜ母上がああまでお前のことを憎むのか俺にはわからない。憎むなら、相手はお松に手を出した父上であって、お前ではないと思うのに。だいたい正妻以外に子を産ませていない旗本を探す方が難しいじゃないか」

 数え十二才にして、他の旗本の家の実情もよく知っているらしい若様である。

 康二郎はぼんやりと若様の言葉を聞いていた。

 康二郎の心に残ったのは、若様が奥様を許してほしいと言ったことだった。康二郎の母、お松とはずいぶん違うけれど、若様にとってはあの奥様が「おっかさん」なのだ。不思議な感じがした。母と暮らした長屋にはいろんな人がいて、いろんな母親がいたが、奥様のような母親はいなかった。

 ――お旗本の「おっかさん」は、みんなあんな感じなのだろうか?


 康二郎には冷たくても、たった一人の子供である若様を大切に思っているのはわかる。だが康二郎には何かしっくりこないものがあるのだ。自分に冷たいことからではなく、若様に対しての奥様の言動に。それが何か、康二郎は言葉にすることができなかった。


 金創医(外科医)でもある甲山先生の見立ては右腕にヒビが入っているのだろう、だった。

「治るまでに一月近くかかる。付け木をして、その間動かさないようにな」

 熱が出ているのも腕にヒビが入っているからだということだった。腕以外もあちこち打撲していたが、幸いそれほど酷くはなかった。


「体が軽いからこの程度で済んだが、ひとつ間違うとあの世行きだったぞ。これからは無茶するでない。そなたを心配して若様の方が倒れたらどうする」

 と、先生は康二郎に言った。

 ――若様の方が倒れる?

 若様は先生が康二郎を診ている間、後ろでその様子をおたまと共に見守っていた。


 先生が帰った後でおたまが若様に声をかけた。

「さ、これでお夜食をお召し上がりになれましょう」

「康二郎は何を食べるの?お粥?同じもので良いよ。あまり欲しくないから」

「お気持ちはわかりますが、若様はしっかり食べないといけません。康二郎殿にはお粥をお持ちしますが、若様には奥様と同じものをお持ちいたします。看病するにも体力がいるのですよ」

 康二郎はその会話もぼんやりと聞いていた。


 康二郎の熱は三日目から下がり始めた。ずっと若様の部屋にいた。付け木が取れるまでこの部屋で過ごすのだと若様は言った。

 夜は六畳間に二組の布団を敷き、若様は康二郎のすぐ横に寝ていた。康二郎のことが気になってぐっすりとは眠っていないのが、顔つきから康二郎にもわかった。


 奥様はもちろん康二郎が若様の部屋で寝ているのが気に入らず、さっさと長屋へ連れていくようおたまに命じたが、若様は世間体を気にする奥様の弱みにつけこみ、言い負かしていた。

「腕を怪我している幼い子供を屋根裏に寝かしているなんて、甲山先生に知れたらなんて酷い家だと思われることか。長屋の屋根裏を先生に見せることにもなります」

 これを聞いた殿様も若様の肩を持ったから、奥様は従うしかなかったらしい。



 熱が下がるにつれ、康二郎は食欲も旺盛になり、ぐんぐん元気を取り戻していった。様子を見に来た甲山先生も康二郎の体の強さに感心していた。

 若様の食欲も康二郎の食欲が戻るのに合わせて、旺盛になっていった。


 右手が使えない康二郎は左で匙を使って食べた。当初はおたまが逐一食べさせようとしたのだが、康二郎は箸は無理でも匙なら使えるようになると言い張った。数えの九歳はあーんと口を開けて食べさせてもらうのが恥ずかしかったのだ。

 はじめのうちは匙を思うように口へ運べず、食べ物をよくこぼしていたが、しばらくすると無難に使いこなすようになった。

 もちろんそれには当時の小さな匙ですくいやすいように、魚や豆腐などの菜を細かく切っておくよう下女に指図したおたまの気遣いあってのことである。


 甲山先生の予想より早い回復を見せた康二郎は、二十日で付け木をとることができた。


 さて明日から長屋の屋根裏での寝起きに戻るなと思いながら、やっと自由に動かせるようになった右腕をさすり、康二郎がおたまと共に甲山先生に一礼して見送ろうとした時のことだった。

 先生は部屋から出ようとして、隅で診察を静かに見守っていた若様に目を止めた。

「どれ、脈をみよう」

 若様はかぶりを振ったが、甲山先生はさっと若様に近寄るとその額に手をあてた。

「熱がある。早く床の用意を」





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