第一章 安永七年秋 (五)
やらなければいけないことがあるとはいえ、康二郎には好きなように過ごせる時間も多かった。絶対にやらないといけなかったのが、手習いの課題をこなすこと、長屋の二階以外では脇差を差しておくことと奥様の視界に入らないようにすることだった。三つ目はなにより自分が嫌な目に合わないために必要だった。
又兵衛から渡された脇差は、若様がもっと小さい頃に差していた、子供用としても小振りで軽いものにもかかわらず、しばらく差していると片側だけの重みとゴツゴツ当たるのに腰が痛くなってきて、康二郎はさりげなく手で持ったり、誰も見ていないときにはすぐに帯からはずしていた。
「そのうち慣れるよ」と若様は言うが、康二郎にはなかなか慣れる気がしなかった。
「お侍様って凄いんだ……」
平気な顔して二刀を差して歩いている殿様や又兵衛、甚五郎を見て、そこは素直に心から尊敬した。
なお尊敬枠に庄次郎が入っていないのは「庄次郎が差している刀は竹光だよ。脇差は本身(本物)だけどね」と若様が教えたからだ。
町地の長屋で育った康二郎の言葉使いは当然町人言葉である。それを家士にふさわしい言葉遣いに変えようという、康二郎にとっては気の遠くなる計画も手習い、帯刀練習と共に進行していた。これがまたなかなかうまくいかない。尊敬語と謙譲語を覚えて使い分けるのも難易度が高いが、何よりも使いなれた一人称の「俺」を「私」にすることに康二郎は大きく躓いていた。
「お……私も一緒に行き……じゃなくて、参ります」
「『じゃなくて』は言わなくて良い」と又兵衛。
町人言葉で良いという若様相手に練習することもあったが、
「俺も……あ、私も聞いたことが……伺ったことがあり……『ありました』は『ありました』でいいんでしたっけ?」
聞いている方は何を言おうとしているのかわからなくなりそうな会話になってしまう。さらには「若様」、「兄上」の使い分け課題もある。
思うようにいかない自分に腹をたてて物に八つ当たりしたい気分になることもあった。そんな時、康二郎は木に登ることを考えた。すぐに登れなければ、明日登るんだと考える。
康二郎にとって、木とは登るためにある。 長屋にいた頃にはお寺や神社に出かけたり、通りかかると、よく木に登ったものだった。大人に見つかれば大抵怒られるのだが、全く懲りなかった。
野田屋敷の敷地には七本の大きな木がある。登りやすい木から始めて、七本全制覇を目論んでいた。登ること自体も楽しいが、木の上から景色を眺めるのが大好きなのだ。今のところは若様と茂吉だけが知る康二郎の楽しみである。怒られないよう、こっそり登らないといけないから、機会を見つけるのがなかなか大変なのだが、これまでに三本の木に登っていた。
待ちに待った難しい木に登れる日がやってきた。
庭には若様と康二郎だけだ。
甚五郎、伊佐次、俊三の三人は殿様の下城のお供ために出かけた。
奥様はお客様と会っていて、おたまもおみつもしばらくそちらにかかりきりのはずである。
又兵衛はいつもこの頃合いには座敷に籠って難しい顔をしてなにやらしたためているのだが、この日は奥様の訪問客と入れ替わるように屋敷を出ていた。
そして、おきぬは茂吉と町地へ買い物に出た。
茂吉は自身が出かけるにあたって門番を下男の善八に委せようとしたのだが、康二郎はこの辺りで遊びながら門番すると、代理の門番を買ってでた。
若様が俺もこの辺にいるから大丈夫だと請け合った。
茂吉は少し不安そうだったが、四半刻ほどで戻りますと言い置いて出かけていった。
これだけ揃うなぞ、千載一遇の機会である。この貴重な機会をあの椎の木制覇に使わない手はない。長屋門脇の大きな椎の木は、場所が場所だから登る機会が無いかもしれないと思ったりしたものだ。
椎の木の攻略法は前から練っていた康二郎である。長屋の二階からも見えるから、考えやすかった。
若様は絵を描き、康二郎は小枝で地面に文字を書いて手習いの練習をすると見せかけ、おきぬと茂吉が潜り戸を出た直後、閂をかけるやいなや、康二郎は庄次郎に教わった、袴の裾をたくしあげ縛るという身支度をし、若様と椎の木の下へ向かった。
若様は康二郎がするすると木に登るのをいつも感心して見ていた。若様自身は登らない。
こんなに楽しいのになぜ登らないんだろうと康二郎は思うが、落ちたら大変だから誘わない。
椎の木の幹は太くて、康二郎が腕を回しても半分にも届かなかった。
若様は心配そうに声をかけた。
「大丈夫かい?どこにも足をかけるところがないよ」
二股に別れているところが康二郎の頭くらいの高さである。
脇差は根元に置いて、高さを確認すると、康二郎は後ろへ下がった。走って勢いをつけ、幹の下方を蹴って飛びあがる。二股に手をかけ、一気に身体を引き上げた。
「すごいなぁ。うまいよ、康二郎」
若様が康二郎の身のこなしに感心して小声で囃した。
康二郎は若様に誉められたのが嬉しかった。立ち上がって、さらに上を目指す。
地面から七尺ほど(2m強)の高さにある大きな枝が塀の外へ向かって延びている。そこを第一の目標にしていた。
第一の目標にたどり着くと、そこからしばらく屋敷の外を眺めた。お城の南西にある坂の上の野田屋敷だから、塀の上からは江戸の町を一望できた。
康二郎が住んでいた長屋は深川にあって、ここからは大きな川の向こうになると聞いた。
大名や大身のお旗本の屋敷の大きな屋根が上から見るととても多い。またその敷地の広いこと!
そして、そうした広い敷地の間にびっしりと町屋の屋根がある。その合間に見える川や掘、その先に広がる海も、お日様の光を浴びてきらきらと輝いて見えた。
「なんてきれいなんだろう」
思わず口をついて出る。
康二郎は江戸の町の光景に気持ちが伸びやかになった。幸せな気分になった。
「兄上、気持ち良いですよ!この眺めをお見せしたいです」
康二郎は下方にいる若様を見下ろして言った。
「危ない!」
若様は眺め云々よりも、下を向いた康二郎が体勢を崩したほうに気を取られ、青ざめていた。
へへっと落ちかけたのを頭をかいて反省し、康二郎は次の目標へと向かった。
さらに二尺程(約60㎝)上に今度は敷地内に向いて、第一の目標よりは少し細目の枝が延びていた。すぐ上にも枝があるから、屈んでいかないといけない。
狭い空間に入るのが好きな子供は多いが、康二郎も狭い空間を見るとだいたい入ってみたくなった。第一の目標の枝から見ると、枝葉に囲まれた魅力的な狭い空間が第二の目標である枝の上に見えている。
途中に延びている小ぶりな枝の根元に足を慎重にかけ、少ない節やうろに手をかけ、少しずつ登った。
目標についたと思った時、どこかから人の声がした。
「康二郎、まずい!思ったより早くお客様が帰るらしい。母上が庭へ出てくる!」
下から若様が状況を教えた。
康二郎は慌てた。
――せっかく着いたのに!急いで引き返さないと……
と思った途端、手をつくところを間違った。思わず掴んだ枝がポキリと折れ、康二郎は体勢を崩した。
「わわわっ!」
なんとか粘ろうとしたが立て直すことができず、頭から下へ落ちていった。
「康二郎!」
若様の悲鳴のような声が聞こえた。
地面に落ちるまでは一瞬のはずだが、康二郎には長く感じられた。その間に
――これで俺は死ぬのかな?おっかさんの所へ行くのかな?
と考えていた。少し離れた所から見上げていた若様が慌てて真下に来ようとするのも見えた。
「若様、来ちゃいけない!」
というのが声になったかどうかわからなかったが、気持ちとしては、とっさに康二郎は受け止めようとする若様を避けて、身体を捻ってべたっと地面に落ちた。
右腕に鋭い痛みが走った。腕の一部を身体の下敷きにしてしまった。
「康二郎、大丈夫か?」
若様がそろりと手を伸ばしてきた。涙目になっている。
康二郎は大丈夫だと安心させるためにすぐに起き上がろうとしたが、腕が痛すぎた。
「あいたたたた……腕が……」
「なにをしているのですか!」
金切り声が空気を裂いた。まさしく怒号だった。奥様だ。




