第六章 天明八年 初夏 (中)
「前にお会いした後、わかったことがございます。まずは事実だけ申し上げます。
三千石の寄合、進藤修理亮様のお屋敷は毎年十名前後の、男女の一季居奉公人を雇い入れておりますが、十五年前から六年前まで進藤家の人宿をしていた大和屋によると、ほぼ毎年、少なくとも一名のまだ若い奉公人が病死したそうです。多い年には男二人に女一人の三人もいたとか。一年だけ病死の無かった年がありましたが、その年には死にかけるほど謎の大病を患った奉公人が出ました。
病死した奉公人も、大病を患った奉公人も、大和屋にしてみれば、どこへ出しても恥ずかしくない、真面目で器量のよい者たちばかりだったそうです。どうにもおかしいと、生き残った奉公人達に何があったのか尋ねても、皆、口を閉ざして何も言わない。死にかけた奉公人ですら、何があったか言えないと言う。
大和屋はこれ以上出来のよい寄子を失いたくないと、進藤屋敷への斡旋を止めたのが六年前。その後は別の何軒かの人宿が進藤家へ奉公人を斡旋し続けているそうですが、いずれも人宿としての評判は良くないとのこと」
神保左内はじっと康二郎の目を見つめながら、微動だにせず話を聞いていた。
もしも、屋敷内のことはその家の問題だと言われれば、これ以上話しても無駄だ。
康二郎は一息つくように少し間を開けて、左内の顔を黙って見返した。左内の感情も考えも読めなかった。考えを質すしかない。
「人柄の良い奉公人が何人も謎の死を遂げていても、それは屋敷内のことと、捨て置かれますか?」
左内はゆっくりとかぶりを振った。
「奉公人の死に不条理があるならば、捨て置かぬ。証しをつかむ必要があるし、証しを掴むのが難しい事案であるのは確かだがな。続けてくれ」
康二郎は内心では大きく安堵した。目付が動いてくれる可能性があるのだ。
もしも屋敷内のことはその家の問題だと一蹴されたら、康二郎はこの場で養子の話を断るつもりでいた。そんな薄情で武家の体面のことしか考えないような人の養子になぞなりたくない。
実のところ、康二郎が神保家を訪れた一番の目的は進藤修理亮の件を目付が、神保左内がどう考えるか、知ることにあった。
康二郎は軽く首肯し、再び話を始めた。
「生き証人といえる者が少なくとも一人おります。お察しと存じますが、大病を患った奉公人が先日まで野田家に中間として勤めておりました。辞める前にやっと少しだけ何があったか話してくれました。
その者は毎年奉公人が病死しているとは知らなかったそうです。いたく衝撃を受けておりました。そのことで話す気になったようです。
他にも見聞きした者がいるはずですが、いずれも進藤様の報復を恐れるだけでなく、自分たちの言うことは信じてもらえないだろうと、口を閉ざしているのです」
康二郎はそこで迷いがでた。
「その……修理亮様には御屋敷に御正妻だけでなく、お美しいお妾を三人抱えていらっしゃると聞きましたが、あの……美しい若衆もお好きなようで……」
左内は軽く頷いた。
「進藤修理亮の遊女や蔭間を呼んでの茶屋遊びは耳に入っている。最近は控えているようだがな。貴公に仕えていたあの背の高い中間の二十歳頃には、進藤が手を出してなんの不思議もない」
「相手が雇い主の殿様であることと、給金を上乗せすると言われたため、仕方なく、命じられれば相手をしていたそうですが、ある時、謎の宴に連れて行かれ、そこで具合が悪くなったそうです。確信はないけれども、出された酒に何か入っていたのではないかと申しておりました。問題はその時の進藤様の言動です。苦しむ姿を面白そうに見ていたそうです」
康二郎は怒りがこみ上げ、膝の上で両の拳を握りしめた。
「その者が命を取り留めたのは運が良かったとしか。しかも、まだ具合が悪く床をあげることができない内に、あ、あの行為をき、強要し……」
この時は、恥ずかしさや照れではなく、正真正銘、怒りで康二郎は声が震えた。
「そのような残虐なことをしていたのはその時だけではなく、ほ、ほかにも色々と……
わたしにはわかりません。あ、あの行為は、ことに繰り返せるのは、相手が好きだから、相手を愛しいと思うから、ではないのですか?愛しい相手を大切にしたいとは思わないのですか?
あの御方のなさった事は、相手に愛情を感じているとは思えない!あの方は人の心を踏みにじるのが好きなのです!踏みにじることに快感を感じているとしか思えない!」
多くが房事に関わることのため、康二郎は具体的に言うのを憚ったが、伊兵衛から、進藤修理亮に何度も心が砕けてしまうような扱いを受けたことを聞き出していた。生きることに絶望した最初は、やはり進藤修理亮が原因だった。
その呼び水は榊原兵庫と暮らした七年間にあり、榊原兵庫が伊兵衛の人生を大きく歪めたのは間違いないが、榊原の屋敷では生きることに絶望を感じるまでの出来事はなかった。一方的ではあったが、榊原兵庫は、最期まで深く伊兵衛を愛していた。
そして、進藤の屋敷で感じた絶望は、奉公を終えた後にさらなる絶望を呼び寄せた。
伊兵衛が自分のような者が入門しては道場に傷がつくと言ったのは、進藤家での一季居奉公の間に男娼と見なされていたからだ。その原因はもちろん進藤修理亮にある。
殿様の命令を拒むことは辞めることになると、相手が殿様だからこそ、我慢して受け入れていたのに、そこでもぞんざいな扱いを受けたうえに、勝手に知り合いの旗本や大名に伊兵衛を貸していたことが何度かあったのだ。
修理亮は楼主のように伊兵衛を勝手に身売りして金を受け取っていたと思われるが、その明確な証しはない。というのも、そんなことのあった日の伊兵衛の記憶はすべてあやふやになっているのだ。
それは心を守るためだ、それで良いのだと、金森右堂が伊兵衛に教えていた。右堂は数少ない伊兵衛の理解者だ。
金森右堂との出会いは進藤家で勤める前だったらしい。宴の途中で具合が悪くなった時に治療したのは右堂だった。それが伊兵衛が命を取り留めた大きな要因だと康二郎には思える。
自分が望んだことではないのに、さんざん弄ばれた挙げ句、そんな風に見なされた衝撃と絶望は大きかった。
何もかもどうでも良くなった伊兵衛は、その後には金や何らかの見返りと引き換えに、男女のどちらにも身体を好きにさせたことが何度かあったらしい。
その一人が浪人どもの襲撃を受けた直後に現れた親分だった。
ただでさえ、容姿から妬みを受けて同僚や破落戸に絡まれることの多かった伊兵衛は、喧嘩や刃傷沙汰を起こしてしまうことが少なくなく、そうした沙汰を目こぼしする代償として、親分が身体を求めてくれば、好きにさせたらしい。
そして親分が身体を要求したのは、伊兵衛に好意を持ったからというよりも、好色者の好奇心だった。伊兵衛は断れない立場だと踏んで、侮っていた。
康二郎があの時、親分の目つきに嫌な感じを受けたのは正しかったのだ。
相手も回数も少数であっても、その事で伊兵衛が心に負った傷も大きく深い。
あの時、居酒屋の隅で青ざめた顔色で告白した伊兵衛は、心の傷がまた開いて血がどくどく流れ出していると、康二郎は感じた。
その姿に康二郎は知った。痛感した。
心に受けた傷はなかなか癒えず、後々までもちょっとしたことで傷口が開き、生々しく血を流し始めるのだ。
康二郎は伊兵衛に辛い過去を思い出させたことに申し訳ない気持ちになり、同時に、なんとしても進藤修理亮に落とし前をつけさせると、心に誓ったのだった。
「わしにもそのような心持ちはわからんのだが、残念ながら、ごく一部だが……ごく一部だと思いたいのだが……人をいたぶることを好む輩がいるのは事実だ。あの者が辞める時には口止めしてきたのだな?」
「はい。一言の詫びも礼もなく、そもそもお前ごときが何を言っても誰も取り上げはしないが、もしも喋ったら命は無いと思えと」
「確たる証しのない限り、屋敷の中には手が出せないからな……獣め!」
神保はついに能面を捨て、苦々しい顔で吐き出すように言った。
「何も方法はないのでしょうか?あの鬼畜のような男をこのままのさばらせておくしかないのですか?今は非道なことをしていないとは、私には到底思えません」
「……つい最近、進藤修理亮に会ったのだな?」
さすが切れ者と評判の御仁である。察しがよい。
「はい。三日ほど前に思いがけず、わたくしが通う中居道場でお会いしました」
その日は久しぶりに同流派の他道場の剣客が乗り込んできての立ち合いがあり、康二郎も中居道場の三番手として立ち合った。
相手の道場のやり方に合わせ、小手と胴に防具をつけて行った立ち合いだったのだが、その場に観客として進藤修理亮が、元蔭間と覚しき細面の若衆を横に座っていた。
どうして進藤がいるのだろうと思ったら、康二郎の相手は進藤の徒士だった。
これで康二郎が燃えないわけがない。
徒士には気の毒だったが、康二郎の容赦のない攻めであっという間に立ち合いは終わった。
いくら防具を付けていても得物は袋竹刀ではなく木刀である。当たり処が悪ければ相手を死なせる。
康二郎なりに相手に怪我させないよう心がけていたのだが、三本目には向こうも頭に血がのぼって遮二無二かかってきたから、とうとう康二郎は防具から出ている脇腹を突いた。
相手は腹をおさえて踞った。
直後に観客には拍手喝采で称えられ、興奮する弟弟子達に囲まれた康二郎だったが、道場の窓から覗く野次馬の中に伊兵衛を見た気がして、急ぎ外へ行きたくてたまらなかった。
なんとか人を振り切り、外へ出てみると、窓のところに伊兵衛の姿はなかった。
しかし幻を見たとは思えず、野次馬の一人に訊ねてみた。すると、
「へえ、背の高い男前の兄さんならいましたよ。お侍様が勝ったのを見届けたら、消えちまいやした」
そうか、試合を見に来てくれたのだと暖かい気持ちになり、康二郎は道場の出入口に向き直った。途端に目に入ったのは、人を見下す目だった。
進藤修理亮が若衆を連れてそこにいたのだ。
暖かい気分は一瞬で吹っ飛んだ。
進藤は康二郎を見ていた。
康二郎は睨み返した。
「見事な腕前だ。どうだ、わしの所に来ぬか。中小姓として雇おう」
「お断りします」
康二郎は怒鳴りたいのをなんとか押さえて言った。
進藤は侮るように鼻で笑った。
「どうもその目に見覚えがあると思ったら、何年か前に伊兵衛が背負っていた色子ではないか」
「あなたと伊兵衛を一緒にするな!」
これは三千石の殿様に対し、とてつもない暴言である。だが康二郎の我慢の尾は切れかかっていた。言い返さずにいられなかった。
「大和屋から聞きました。あなたのお屋敷に人を斡旋すると、若いのに病死する奉公人が出るそうですね。一体お屋敷で何が起こっているのですか?」
その瞬間、進藤の隣にいる若衆の顔が強ばった。
「伊兵衛が何か言ったのか?」
「伊兵衛は何も言いませんでした。俺があなたを見た伊兵衛の様子からどうにも気になって、大和屋に尋ねてみたのですよ」
康二郎、一世一代の嘘である。伊兵衛とその家族の命がかかっているとなると、目をそらすことも言い淀むこともなく、真顔で嘘がつけた。
「ふん。人が病で死ぬのはどうしようもない。こちらこそ運の悪さに困っておる。人宿の問題ではないのか。具合の悪いのを隠して斡旋しているのだろう」
――よくもぬけぬけと……
康二郎はまだ手に持ったままの木刀をぎゅっと握りしめた。ここで爆発させてはならない。康二郎の立場では迂闊なことはできないのだ。野田家が改易になりかねない。
「しらばっくれるなら、しらばっくれるが良いでしょう。何もないのなら、堂々としていればよいことだ」
康二郎はそう言いながら、進藤の目の動きを見ていた。微妙な動きがあった。人はそう簡単に変われない。今も何かよからぬことをしているのは間違いない。康二郎は確信した。
「気をつけることだな」
康二郎は進藤の連れの若衆にすれ違い様短く言うと、進藤のすぐ横を、敢えてそちらは見向きもせず通りすぎ、道場に戻った。




