第六章 天明八年 初夏 (上)
一つ深呼吸をしてから、康二郎は潜り戸を叩いて訪いを入れた。
九百石の神保左内の屋敷は約六百坪の野田屋敷より三百坪ほど広いだけのはずだが、表に聳える長屋門からは、倍近く広いのではないかと思えた。
門の両側にそれぞれ二階建ての長屋が二十間近くあり、長屋から塀に変わる所には大きな常緑の木が見えている。木の見え方に、康二郎はかつての野田屋敷を思い出した。
すぐに潜り戸が開くと思っていたのに、なかなか開かない。何故時間がかかるのだろうと思ったら、門がゆっくり開いていった。
――潜り戸で良いのに……
「わざわざ門を開けてもらえるとは思わなかった。ありがたいことだが、帰りは潜り戸にしてくれ。あまりにもったいない」
康二郎は笑顔で門番に言った。
門番の方は康二郎が一人で来たことに驚いていた。
康二郎は門番に式台まで案内され、式台から奥へは若党に案内された。
御目付は忙しい。七つ半(午後5時頃)を過ぎていたが当主の左内はまだ下城していなかった。
康二郎は十畳程の書院造りの部屋に通され、間もなく再び現れた若党が茶と菓子が山盛りの皿を置いていった。
それからまたしばらく待っていると、「あ!」「きゃ!」という女達の悲鳴となにやら物が落ちる音がした。
「奥様!」と更に女の声がした。
康二郎が様子を見に行こうと立ち上がったら、年配の女中が濡れ縁に姿を見せた。
「間もなく奥様がお見えになります。今しばらくお待ちを」
ほほほ……と、謎の笑いを残して女中は去ったのだが、前触れに来たのではなく、康二郎が外を覗くのを阻止するために現れた気がした。
更に待つことどれくらいか。この時代はのんびりしていたので、四半刻(約30分)待つくらいは気にならないのだが、そろそろ気になり始めるくらい待った。
ようやく複数の人の気配が近づいてきた。衣擦れの音がする。
先ほど康二郎に経過報告の振りをして前に立ちはだかったとしか思えない女中が再び現れた。
「お待たせいたしました。当家の主、神保左内の奥様、知佐様にございます」
女中に続いて、枇杷茶の地の、裾に小鳥と桜の模様を散らした着物を着た女が現れた。
康二郎は深く頭を下げた。
奥様はお座りになった所で康二郎に声をかける。型通りである。
「康二郎殿、お手をおあげくださいませ。どうぞお気楽に」
康二郎が顔をあげると、そこにいたのは華やかさは無いが可憐な野の花を連想させる、穏やかな雰囲気の女性だった。
――このお方が奥様……
神保左内の奥様は四十を過ぎているということだったが、康二郎の目にはずいぶん若く見えた。
康二郎も奥様の若さに驚いたが、奥様の方も康二郎の姿に驚いたらしい。
「まぁ、なんと爽やかな殿御でしょう!殿様ときたら、日頃人は姿形ではないと言っておきながら、お気に召した若者がこの美丈夫では説得力がなくなるではありませぬか、ねぇ、やえ」
途中からは傍らに控える女中頭らしい、奥方より少し年上の例の女中に向かって話していた。
爽やかとは初めて言われた気がする康二郎である。どう返して良いかわからず、一言「き、恐縮にございます」とだけ返して俯いた。
「ずいぶん長くお待たせしてしてしまいましたね。ちょっと、その……ございましてね」
「はぁ……そうでございますか」
康二郎の不明瞭な答えは、何があったのですかと聞きたいのをなんとか堪えた結果である。意味の無いやり取りだ。
奥様は居心地悪そうだった。
「ごまかしても仕方ありませんわね」
覚悟を決めたように頷くと、奥様は康二郎の目を覗きこむように見つめながら話し始めた。
「わたくし、緊張したり慌てると、いつもとんでもない失敗をするのです。先ほども康二郎殿をお待たせしてはいけないと焦ったら……あ、その前に緊張して用意に手間取ったのも問題だったのですけどもね。ここへ参る途中、曲がり角で濡れ縁を踏み外してしまって……」
「ええっ!お怪我は……」
何か落ちた音がしたとは思ったが、まさか奥様が落ちた音だったとは……と、康二郎は驚いた。
「ご覧の通り、大丈夫です。よく転んだり落ちたりする代わりに、わたくしは受け身が得手らしいのです。一刀流免許皆伝の我が殿様のお墨付きです」
奥様はにっこり笑って言ったが、康二郎は一緒になって笑っていいのかわからず、顔は強ばった。
「お、お、お怪我がなくて何よりです。私を待たせることなどお気になさらぬよう……」
「そうですね。結局、更にお待たせすることになったのですものね。髷が崩れてしまったものだから、結い直さないといけなくて」
「そ、それは激しい落ち方をしたということでは……本当に大丈夫でございますか?」
こうして話していて、いきなり倒れられては困る。康二郎は焦った。
奥様と康二郎の遣り取りを、途中からやえは笑いを堪えて聞いているように康二郎は感じていたのだが、我慢しきれなくなったらしく、とうとう吹きだし、その後には袖で覆った口許からくっくっくっと笑い声が漏れた。
「ほら、やえが吹くくらいですから大丈夫ですのよ」
「も、申し訳ございませぬ……くっくっくっ。康二郎様、奥様はこれまでにも何度か濡れ縁から落ちてしまわれたことがございまして、いずれも気を失うこともなく、あとから具合が悪くなったこともないのでございます。念のためお医者様に見ていただいても本当に落ちたのかと言われる始末で。髷が崩れるのも落下の衝撃をうまく消しているからだそうでございます」
言い終わってからも、くっくっくっとやえの笑いは続いている。
――前に階段から一緒に落ちた女中を見ても髷のおかげで大事に至らなかったとは思ったが、しかし……
「そ、そうですか。神保様のおっしゃる通り、受け身の天才でいらっしゃいますね」
「あとから考えると、どうしてそんな馬鹿なことをやったのだろうと自分でも呆れるのですけれど、なかなか直らないのです……」
奥様は沈んだ調子で言った。
康二郎は身に詰まされた。
「あの……卒爾ながら、そのお気持ち、わかります。私も焦ると思わぬ失敗をしてきました。幼い頃には木から落ちたり、一年近く前にも階段から落ちまして……」
「まぁ!お怪我は?」
「さすがにこの二つは無傷とはいきませんでしたが、一月もしない内に全快して、ご覧の通りです」
康二郎はにっこり笑って腕を広げて見せた。それから声を落とした。
「このような粗忽者が当家のご嫡男にふさわしいとは思えないのですが……」
「嬉しいですわ!わたくしのような粗忽者のいるお屋敷など御免蒙ると言われるのではないかと案じておりましたの。それどころか悩みも分かってくださるなんて、なんて心強い!」
奥様は喜色満面である。
――こ、心強い?逆ではないか?この遣り取りを左内殿が聞いたら、さぞ不安になるのでは……
康二郎が思わずやえを見たら、いつの間にか後ろを向いていた。肩が震えている。
よく見たら、視界の隅に見えていた障子に影が写っている、濡れ縁に侍る女中の肩も震えていた。
「殿様のお戻りぃ~」
遠くから声が響いた。
「ようやくお戻りだわ。でも今日はわたくしはお出迎えしなくて良いのです。康二郎殿が来ているなら、出迎え不要、康二郎殿のお相手をいたせとの仰せです」
奥様はここでようやくお茶に手をつけた。
「左内様がそのようなことを……」
――出迎えに行ってくれた方が気が楽で良いのだが……
「康二郎殿は甘いものはお嫌いなのですか?」
「いえ、好きです」
康二郎の気持ちとしては、緊張で喉が乾いて仕方なかったから、茶は飲み干したが、菓子には手をつけるどころでなかった。
「殿様がここへお見えになったら、酒肴をお持ちしますけれど、あまりお酒はお好きではないのでしょう?今のうちですよ。お菓子を食べていられるのは」
奥様はいたずら好きの少女のような顔つきで、パクリと練り切りを一口で食べた。
奥様と康二郎が互いの小振りな失敗談に笑い合いながら、皿に山盛りだった菓子を平らげたところへ、着流し姿の神保左内が現れた。
「さっそく和気藹々の様子ではないか。良かった、良かった。堅苦しいのは無しだ。我々やこの屋敷の雰囲気が気に入るかどうかなのだから、気取ってみても始まらない。康二郎殿も気楽にいたせ。着流しになってよいぞ」
左内は座りながら、知佐に声をかけた。
「どうだ、気に入ったろう?康二郎殿は何よりお前と馬が合う気がしたのだ」
「まぁ、わたくしが気に入るかどうかなど二の次、三の次でございましょう。でも、はい。確かにもう康二郎殿のことが大好きになりました。こんな息子ができるなんて、夢みたい……」
「いや、あの、まだお返事は……」
康二郎が慌てて割って入った。
「あら、そうでした。今日初めてお会いした気がしないものだから、もうすっかりその気に……」
「ふっふっふ。お前がこんなに楽しそうなのは久しぶりに見るな。今日もやらかしたそうだが、大事ないか?」
左内の妻を見る目のなんと優しいことか。目付として野田家に現れた左内とあまりに雰囲気が違った。
知佐の左内を見る目にも優しさと愛情が溢れている。
互いにそんな目で見つめあいながら、大丈夫ですとも、そうか、だが油断するなよと囁き合う二人を見ていたら、康二郎は顔が熱くなってきた。
先に神保家を訪れていた父親、野田織之助が笑いながら康二郎に教えていた。
「当家と違ってあちらは仲睦まじいぞ。当てられて来い」
織之助から聞いた話では、左内と知佐はこの時代の武士には少ない、好きあった者同士がめでたく結ばれた夫婦である。
知佐は左内の道場仲間の妹で、たまたま道場に兄の忘れ物を届けに来た時に左内が見初めたらしい。
仲睦まじさは夫婦となって二十年以上たっても変わらないようだ。
仲が良すぎて子供が生まれなかったのだという揶揄もなるほどと思った。
――俺がここにいては邪魔ではないか?
そう思い始めた時、左内が康二郎に話しかけてきた。
「貴公を養子に迎えるのは、我ら、二人の面倒を見てくれというのではない。あくまでも神保家を継いでほしいからだ。三百石から九百石など、どうということはないぞ。まだしばらく隠居する気は無いが、貴公が家督を継いだら、好きなようにやるとよい。お役目にも就きたければ就けばよく、小普請組で良ければ小普請組でいればよい。もっとも、貴公は御目付に向いていると思うがな」
「私が御目付に、ですか?」
「野田家に出向いた時、貴公は怪しげな三千石の殿様の話をしてきたろう?あの時の貴公は、わしの目をまっすぐ斬り込むように見ていた。悪を許さぬ強い意思があった。あの目ができる奴はなかなかおらぬ」
「そんな目で左内様を見ておりましたか……その怪しげな三千石の殿様のことでお話ししたいことがございます。誠に申し訳ございませぬが、奥様を含めて、しばしお人払いを」
康二郎は平身低頭した。
「……女御に聞かせたくない話のようだ。しばらく向こうでやえ達と女房話に花を咲かせてきなさい。終わったら幾之助を呼びに行かせる」
「はい」
知佐とやえが部屋を出ていったのを確認し、康二郎は頭をあげた。




