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第五章 天明八年 春 (九)

 

 和之助は、康二郎が注いだ酒を口許へ持っていきながら、真顔で答えた。

「俺と同じように、康二郎に助けられたからだよ」

 康二郎は聞き間違ったと思った。

「え?今、何と申されました?」

「伊兵衛がお前にあれほど尽くせたのは、俺と同じように、康二郎に助けられたからだ」

 聞き間違ってはいなかった。


「助けられたのは俺の方じゃないですか!」

 康二郎は驚きのあまり、つい声が大きくなった。声を落として続けた。

「この四年間、俺は伊兵衛に助けられっぱなしで、助けることができなかった……何もできなかった……少しでも返したかったのに……守りたかったのに、結局……」

 康二郎は俯いた。


「『救われた』といった方がいいかな。康二郎が見せた素直さ、率直さに伊兵衛は救われたんだと思う」

 康二郎は顔を上げて兄の顔を見た。やはり真顔だった。ふざけていない。

「そんなことで救われますか?」

「救われるよ。伊兵衛のそれまでの人生を考えてみろ。どんな目に遭ってきた?周りからどんな扱いを受けてきた?その辺りのことは、今では俺よりおまえの方が知っているだろう。最初に俺が考えたように、お前を自分のような目に遭わせたくないという気持ちを抱いたのは間違いないが、その思いが強くなったのは、お前の素直さに救われ、穏やかな心持ちになれたからだと思う」


 康二郎はおきみと伊兵衛に言われた言葉を思い出した。

 自分をまっすぐ見てくれる。

 そういった言葉だ。

 康二郎にはごく普通の当たり前のことが、世の中ではそんなにも当たり前ではないのか。

 そんなことで命をかけてまで自分を守ってくれたのか。

 その後もずっと傍にいて、なにかと助けてくれたのか。

 康二郎はますます伊兵衛に申し訳ない気持ちになった。


「伊兵衛はお前を揺るがない大木に例えたらしいが、上手い例えだよ。お前は知らず、伊兵衛を嵐や強い日射しから守ってたのさ。辛いことがあった後には傷を癒し、安らぎを与えていたんだ」

 人を見る目が確かな兄だが、この時の康二郎にはどうにも信じられない言葉だった。


 初めて康二郎が見た伊兵衛の顔は笑顔だった。康二郎が思っただけのつもりが、口に出していたらしい、「山だ」に吹き出したのか、爽やかな笑顔を見せていた。

 ――そんな伊兵衛が自分の素直さに助けられていた?存分に笑わせたとは思うが……笑うことで救われたなら、わかるが……そういうことか?


 そこで先ほど和之助が言った言葉を思い出した。


 お前はお前が来る前の俺を知らない。


 康二郎は頭の中で置き換えた。

 ――俺は俺に会う前の伊兵衛を知らない……

 それは事実だ。だが、納得しきれない。


 三千石の穀潰しの所業を告白させた時も、康二郎は虚ろな目になった伊兵衛をただ、ただ「伊兵衛は悪くない」と、なんとかの一つ覚えのように繰り返しながら、肩を抱くことしかできなかったのだ。

 腸が煮えくり返るという表現がぴったりなほど三千石の穀潰しに腹を立てていたが、それをうまく表に出すこともできなかった。

 その後も、身体から生気が薄れ、目は虚ろなまま眠りに落ちた伊兵衛を放っておけず、一晩中、隣で横になり見守ったが、結局のところ、見守っただけだった。いつもの伊兵衛に戻ることを祈りながら。



 あの夜、康二郎は居酒屋から伊兵衛を木蓮長屋まで送っていこうとしたのだが、伊兵衛がそれでは役目を果たせないと、虚ろな目のまま頑なに言い張ったため、仕方なく康二郎は伊兵衛を長屋門の自分の店に連れ帰った。

 そして、さえには庄次郎を使いにして知らせ、そのまま伊兵衛を店に泊めた。

 伊兵衛を一人にするのが怖かった。このまま一人にしたら、二度と会えなくなる気がしたのだ。


 今晩はここで休めと康二郎が命じたから納得はしたが、伊兵衛は六畳間を康二郎一人に使わせ、あくまでも狭い上がり框で寝ようとした。

 そのため、康二郎は伊兵衛が寝入ったところで畳の方に布団ごと引きずってゆったり寝かせるという作戦に出た。そして、一晩中、伊兵衛に添い寝したのだ。

 うつらうつらと浅い眠りには何度か落ちたが、ぐっすり寝入ることはなかった。

 心配でならなかったからだ。

 目が覚めたら、伊兵衛が行き方知れずになっているのではないか。もしかしたら、もうこの世に……そんな不安が頭から消えなかった。

 話を聞くために伊兵衛を追い込んでしまった責任を強く感じていた。


 朝にはほぼいつもの伊兵衛に戻っていて、康二郎は心底ほっとした。

 その後は、交代するかのように、康二郎が二刻近くぐっすり眠り込み、伊兵衛は時々康二郎の様子を窺いつつ、念入りに店の掃除をしたらしい。

 日が高くなってきた頃に康二郎が目覚めたら、いつもの伊兵衛だった。


 助けるためだったのに、却って伊兵衛を苦しめてしまったのだから、この一件は、康二郎にとって今でも苦い思い出だ。



 康二郎の納得していない様子に、和之助は笑みを浮かべた。

「いつか伊兵衛に俺がこう言っていたと教えるといい。きっと、その通りだと言うぞ」

 和之助は徳利に手をのばしながら、康二郎の盃を指差した。「飲め」ということだ。

「もう、結構です。俺は兄上と違って酒に強くないんで……」

 康二郎は盃を手で覆った。頭がふんわりしている。過去の経験からして、これ以上飲んだら、寝てしまう。

 和之助は、仕方ないというように軽く肩をすくめ、手酌で自分の盃を満たしながら、言った。

「ほろ酔いの方が父上と話しやすいだろう」

 康二郎は「え?」と、また聞き返した。


「父上はお松のことで悔いていることがあるらしい。いつかはお前に話さなければと思っているようだ。この機会に聞いてこい。それに対して、お松の最後の日々を知るお前だからこそ、父上に告げられる何かがあるはずだ」




 康二郎は再び庭から殿様の部屋へ近づいた。夜風のせいか、酔いは少し醒めてきた。

 四つ(午後10時頃)近かったから、もう休んでいるのではないかと思ったが、殿様はまだ起きていた。月明かりの方が明るいのではないかというくらいの行灯を部屋に灯し、一人、濡れ縁で酒を飲んでいた。肴はなにもない。ただひたすら酒をちびりちびり飲んでいたらしい。

 この度も庭から現れた康二郎に殿様は驚きもせず、また「上がってこい」と言った。

 殿様は部屋の中にある銚釐を指差した。

「飲むならあれを飲むと良い。まだ手はつけておらぬ」


 康二郎に飲む気はなかったが、殿様がまだ飲み足りなさそうだと銚釐を取りに行った。銚釐を片手に濡れ縁に戻った時、斜め前に見えている殿様の背中が震えた。

「康二郎、お前に言わなければならないことがある。お松をあの若さで死なせたのはわしだ。すまぬ……謝って済むことではないが、謝ることしかできぬ……」

 康二郎は思わずそこに座った。


「お松が産み月まであと二月というところでこの屋敷から暇をとった時、わしはたった五両しか金を渡さなかった。無くなったらまた取りに来いと、そう言って渡した。本心だった。お松とまた会いたかったからだ。そうしておけば、一年か二年後にはまた屋敷へ現れると思っていた。わしが甘かった……お松は二度とわしの前に現れなかった……」

 涙を堪えて悔恨に震えながら話しているのが後ろ姿からもわかった。


「お松が心からわしを好いていなかったことは知っていた。だが受け入れてくれたことで、わしは有頂天になっていた。あれの心を、その覚悟を、何もわかっていなかった……」

 康二郎に父親は死んだと言っていた母である。


「又兵衛が安心して子が産めるようにと世話した長屋から臨月で姿をくらまし、その後、子供が産まれても何も知らせてこず、居場所を突き止めようとしても、住んでいた長屋を転々と変え、お松はわしの前から完全に姿を消した。

 そのことで腹をたてたこともあったが、男ができて町屋で所帯を持ち、幸せに暮らしているのかもしれないと思いもした。

 子供がどうなったか気になったが、お松が幸せならば幸せに過ごしているだろうと忘れるようにしたこともある。

 そんなわしの勝手な思い上がりは、八年後に又兵衛から聞かされたお松の死とそれまでの暮らしぶりに粉々に打ち砕かれた……お松はわしを憎んでいたのか?」


 殿様の問いの答えは、今となっては康二郎にもわからない。

 とにかく何か言わなければと、康二郎は口を開いた。

「わ、わかりません……本当に野田のお屋敷のことも殿様のことも、一切何も私に話したことはなかったのです。けれど、殿様を、この屋敷を憎んでいたのなら、私をあれほど慈しみ育ててくれたでしょうか?」


 今となっては康二郎にも謎がある母の言動である。それ以上言えることは無かった。

 優しげな風貌に似合わず、内には頑固なまでの強い意思を秘めていた女なのは間違いない。

 ――少し伊兵衛と似ている……

 今頃気がついた康二郎だ。

 ――そうか!榊原殿のことが気になっていたのは、殿様に似ているからだ……


 独り身と妻帯者に、相手が少年と女中ではかなり条件は違うが、愛する者、心底から強く欲したものを手に入れたようで手に入れられたと言いきれない、二人の微妙な状況が酷似している。


 榊原兵庫は相手と取引する形で一つ屋に暮らし、名前も外見も好きなように相手を変えたが、気持ちは自分に向いておらず、遅かれ早かれ自分の元から去っていくことがわかっていただろう。だから長生きする気はなかった。「みつる」と呼んだ相手がまだ手許にいるうちに逝けることを幸せだと思っていたのだと康二郎は思った。

「みつる」という命名も、自身の心が満つる、心を満たしてくれるという意味だったのではないかと思った。


 一方、野田の殿様は、手に入れられたのは一瞬で、相手は自分から永遠に去っていったということに、その惚れた相手が亡くなるまで気がつかなかった。なまじ仮初めでも手に入れたと思い、それも子供という繋がりで越えられると思ったか、少なくとも切れることはないと思っていたのがいけなかった。

 その衝撃は挫折感でもあっただろう。ひょっとしたら、殿様には人生初めての大きな挫折だったかもしれない。


 そう考えた時、お松の死を知ってからのこの十年、ずっと悔やみに悔やんできたことが、表立っての父親としての振る舞いを、感情を見せることすら封じてきた理由の一つではないかと、康二郎は思った。あの奥様の悋気を避けるためだけでなく、自身へ課した、一種の罰でもあった……

 殿様の背を見ているうちに浮かんだ考えだが、康二郎にしては珍しく自分の考えが当たっていると思えた。

 そんな殿様に、康二郎は憐れみを感じた。同時に、その不器用とも言える一途さには、好ましい感情を抱かずにいられなかった。


 ――おっかさん、あなたは生きている限り野田の殿様に頼る気はなかったようだけれど、自分が死んだ時には唯一頼る相手と藤兵衛さんに話していたように、あなたのいない今、この人は俺にはたった一人の親だ。大好きな兄も、この父あっての繋がりだ。どんな思いがあったにせよ、俺に免じてこの人を認めてほしい……


 康二郎は殿様にそっと声をかけた。

「母はお武家のしきたりに馴染めなかったのでしょう。私を町人として育てようとしたことからもわかります。あなた様がどうこうではなく、母が自分らしく生きるために、それが子供のためでもあると信じて……」

 そこまで言ったとき、康二郎はふと、もしも殿様が旗本の身分を捨てて母と駆け落ちすると言ったなら、母は一緒に逃げたのではないかと思った。この殿様には絶対にできないことだ。


「お松は長屋で幸せそうにしていたそうだな」

 康二郎に背を向けたまま殿様が言った。

「はい。私にはそう見えました。少なくとも私と一緒にいる母はいつも楽しそうでした。体調を崩した時でさえ、決して後ろ向きなことは言わなかった。母のあの心の強さは何だったのだろうと、成長するにつれ、思うようになっております」

 康二郎はそこで間を置いた。思いきって呼び掛けた。

「殿様。殿様を父上とお呼びしても宜しいでしょうか?」


 殿様は驚いたように振り向いた。いや、驚いたように、ではなく、心底驚いていた。

「もちろんだ。お前はわしの大事な息子だ」

 殿様の目の悔恨の色が更に濃くなった気がした。

 その勢いで殿様は酒を飲もうとしたが、手元の銚釐にもう酒は残っていなかった。


 康二郎はまだ手をつけていない銚釐を濡れ縁へ持って行く途中だったことを思い出した。にじりより、新しい銚釐を殿様の手許に置いた。

 そのまま下がろうとした康二郎の手を殿様が掴んで止めた。

 飲んでいた盃を康二郎に持たせると、殿様は銚釐から酒を注いだ。

 あまり酒に強くないのにと、少しの間ためらったが、康二郎は盃の酒を一息に飲んだ。

 盃を返す康二郎に殿様が言った。

「康二郎、お松のことを話してくれ。お前が知るお松を……」

 その目は涙で潤んでいた。康二郎が初めて見る殿様の、父親の涙だ。


「父上……」

 今も母を思うその気持ちに動かされ、康二郎は思わず後ろから父親の両肩に腕を回した。昔、母が康二郎にしたように。

「母はよくこうして私を抱き締めてくれたものです。寒い冬の日は特に……」

 康二郎の手に温かいしずくが次から次へと落ちてきた。











  ―― 第五章 終わり ――










* 次回以降の第六章は、エピローグ的な短い(内容は大事な)最終章です。




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